1980年代 - 1990年代前半
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「須山公美子」の記事における「1980年代 - 1990年代前半」の解説
須山はソロ活動開始後、ライブでアコーディオンの弾き語りを始める。変身キリン時代にピアノがない場所でライブをすることになり、メンバーが借りてきたアコーディオンを弾いたのがきっかけという。須山が幼い頃にはまだ街頭に傷痍軍人がおり、アコーディオンやハーモニカ、ギターなどを演奏しながら、白装束に身を包み物乞いをする姿が見られた。須山はアコーディオンを手にしたとき、彼らの姿を少女の頃に横浜で見かけ「都会のブラック・ボックスみたいなミステリアスなもの」を感じるとともに、そうしたものに惹かれた記憶を想起したという。またアコーディオンを使おうと思ったのは、父が愛聴していたシャンソンの影響もあったという。須山はインタビューで、アコーディオンの魅力を「前を向いて歌える、アクティブな楽器」と語っている。 1981年に初のソロ作品として、ムーンレコード(MOON RECORDS、兵庫県宝塚市)から、4曲入り7インチEPシングル『少女歌手/パラドクス/虫の時/仮面の神』をリリース(規格品番:M-8101)。1985年、ゼロレコードからソノシート『虫の時』として再発されている。これらの楽曲はレコードではピアノ、ステージではアコーディオンの弾き語りで歌っていた。 1984年、ゼロレコードからファーストアルバム『Les chansons qui filent du rêve...』をリリース。また同年には、ゼロレコードの主催者・平川晋(ひらかわ すすむ)の音楽ユニット「sh」のシングル『深き森から』にピアノとボーカルで参加。ゼロレコードと兵庫県西宮市のインディーズ・レーベル「かげろうレコード」が共同制作したオムニバスアルバム『Aura Music』に「春夜錯乱」「舟歌」の2曲で参加。 この頃には須山の作品がヨーロッパのインディーズシーンでも注目を集め、レコメンデッド・レコードをはじめ複数のコンピレーションアルバムに参加する。1984年にはフランスのコンピレーションアルバム『パリ 東京 (Paris Tokyo) 』に「Dance」が収録された。 1986年にセカンドアルバム『夢のはじまり』をリリース。すきすきスウィッチの佐藤幸雄がプロデュースし、演奏には溝口肇、篠田昌已、近藤達郎、清水一登、れいちなどが参加した。 ファーストとセカンドではアコーディオンを前面に、シャンソンや昭和歌謡のエッセンスを盛り込んだレトロ風の曲調となっている。この頃は、自らの音楽をアングラ・フォークの系譜にあるとしていた。ファーストでは1980年代のパンク・ニューウェイヴから影響を受けた曲もあり、曲調はバラエティに富んでいたが、セカンドでは「夢」をコンセプトに統一感のあるアルバム作りが行われた。『夢のはじまり』発売後のインタビューでは、ファーストは暗い曲が多かったが、仏教の信仰を得たことで心境の変化があり「いっしょに行こうよ」という感じの曲が増えたと述べている。当時のインディーズシーンでは暗い曲が人気だったことにも触れ、「だってみんな怖いの好きでしょー。」と発言し、インタビュアーが絶句してしまう場面もあった。 1990年には、サードアルバム『わたしがなりたかったもの』をリリース。収録曲の「横浜のおじいちゃんのうた」は少女期の体験が基になっている。ファースト、セカンド、サードと曲調がだんだん明るくなり、『わたしがなりたかったもの』では童謡のような愛らしい曲が増えた。
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