1980年クーデタ
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「民族主義者行動党」の記事における「1980年クーデタ」の解説
こうした1970年代の不安定なトルコ政局や、続発するテロ事件を、政党政治の限界とみなした軍部は、1980年9月12日に軍事クーデタを敢行し、全政党の活動を禁止した。民族主義者行動党も非合法化され、軍部から過去のテロ活動を危険視されたテュルケシら党幹部も投獄された。このため、同党の主要な支持層は中道右派政党の祖国党に流れることとなった。 1983年の民政移管を受けて、民族主義者行動党の旧指導部により、党の再建が行われ、同年、保守党(Muhafazakâr Parti)が設立された。保守党は、1985年に民族主義者労働党(Milliyetçi Çalışma Partisi)に改称し、1987年にテュルケシの政治活動禁止が解除されると、同年党首にテュルケシが復帰した。民族主義者労働党は、1991年の総選挙に、福祉党、改革民主党(トルコ語版)と共同名簿を作成して参加し合わせて19議席を得た。1992年には党名を再び民族主義者行動党に戻した。
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1980年クーデタ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/23 02:25 UTC 版)
1970年代のトルコ政局は、連立政権が次々と入れ替わるなど不安定であり、左右両派の対立によるテロ事件も続発した。さらに、インフレが慢性化するなど経済状況も悪化の一途を辿った。こうしたトルコ政治の行き詰まりは、軍部に政党政治の限界として捉えられた。 こうした政治危機の中、エルバカンは1980年8月に、アタテュルク廟での独立戦争戦勝記念日の行事を欠席しただけでなく、翌9月6日にコンヤで大規模な政治集会を催し、集会参加者がトルコで禁止されているトルコ帽(フェス)を被って、イスラーム法の施行を要求するプラカードを掲げてデモ行進をするなど、急進的な示威行動を展開した。 こうしたアタテュルクに対する公然の批判や、トルコの国是である世俗主義原則の否定は、現体制に対する深刻な敵対行為として軍部に受け取られ、軍の政治介入の直接の契機となった。1980年9月12日に軍部はクーデタを起こし、全政党は活動を禁止された。国民救済党も非合法化され、エルバカン以下主要幹部も逮捕された。同党の支持勢力は、1983年の民政移管の際に結成された福祉党に移ることとなった。
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