1761年と1762年
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「スペインによるポルトガル侵攻 (1762年)(英語版)」も参照 1761年戦役がはじまった時点ではプロイセン軍は残り10万人しかなく、しかも多くが新しく徴募された兵士だったため、もはや絶体絶命であるように見えた。しかし、オーストリア軍とロシア軍の損耗も大きく、大規模な侵攻ができなかった。 2月、ヴォルフェンビュッテル侯子フェルディナントはランゲンザルツァの戦いでフランス軍に奇襲して勝利すると、3月にカッセルを包囲した。しかし、フランス軍が再集結してグリューンベルクの戦いでハノーファー軍数千を捕虜にすると、フェルディナントは包囲を解かざるをえなかった。また、フィリングハウゼンの戦いではフェルディナント軍がフランス軍9万2千を撃破した。[要出典] 東部戦線は緩慢にしか進まなかった。ロシア軍はポーランドにある弾薬庫に大きく依存し、プロイセン軍は数度それを襲撃した。そのうち、9月にプラーテン将軍がおこした襲撃ではロシア軍が2千を失い(ほとんどが捕虜)、ワゴン5千が破壊された。すでに人員不足が深刻になっているプロイセン軍は奇襲攻撃で敵の進軍を遅滞させるしかなかったのであった。この努力にもかかわらず、プロイセン軍は1761年年末には2つの敗北を味わった。ザハール・チェルヌイシェフ(英語版)とピョートル・ルミャンツェフ(英語版)率いるロシア軍によるコルベルクの占領とオーストリア軍によるシュヴァイトニッツ(英語版)の占領であった。コルベルク陥落の結果、プロイセンはバルト海沿岸にある主要な港を全て失った。ロシア軍にとって兵站の問題は戦争を通して悩みの種であり、ロシア軍の追撃を阻んでいたが、コルベルクを占領したことで海路からの補給という新しい経路ができた。海路からの補給は陸路よりずっと早く、安全(バルト海を通って輸送することでプロイセン騎兵に妨害される可能性がない)であったため、両軍の戦闘力のバランスがロシア側に大きく傾いた。そのため、イギリスではプロイセンの総崩れが予想された。 イギリスはプロイセンに和平交渉で妥協しなければ援助金を打ち切ると脅かした。プロイセン軍が残り6万人まで目減りし、さらにベルリン自体が包囲される可能性も高まったため、プロイセンの存亡が脅かされていた。しかし、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝がなくなった。彼女の後を継いだピョートル3世はプロイセン贔屓だったため、すぐさまにロシアの東プロイセンとポンメルン占領を解き(サンクトペテルブルク条約を参照)、スウェーデンとの和平を仲介した。さらにロシア軍の一軍をフリードリヒ2世に送り、その指揮下においた。この出来事はブランデンブルクの奇跡として知られる。ロシアの援軍を得たフリードリヒ2世は総勢12万の軍勢をオーストリア軍との戦闘に集中させ、ザクセンの大半から追い出した。またフリードリヒ2世の弟ハインリヒ王子が10月29日のシュレージエンにおけるフライベルクの戦いでオーストリア軍に勝利、さらにヴォルフェンビュッテル侯子フェルディナント率いるブラウンシュヴァイクの同盟軍は要地のゲッティンゲンを占領、またカッセルを包囲して落とした。 1762年には2つの国が参戦した。1762年1月4日にイギリスがスペインに宣戦布告し、スペインも18日にイギリスに宣戦布告した。続いてポルトガルがイギリス側で参戦した。スペインはフランスの援助を得てポルトガルに侵攻(英語版)し、アルメイダを落とした。イギリスの増援の到着がスペインの進軍を鈍らせ、バレンシア・デ・アルカンタラの戦いではイギリス・ポルトガル連合軍がスペインの補給拠点を占領した。スペインの進軍はイギリス・ポルトガル連合軍の守るアブランテス(「リスボンへの道」と呼ばれた)で止められた。やがてゲリラ戦と焦土作戦を行ったイギリス・ポルトガル連合軍が大きく消耗していたフランス・スペイン連合軍をスペインまで押し返し、占領された町をほぼ全て奪い返した。この奪還された町のなかには数多くの戦傷者と病人が置き去りにされていたカステロ・ブランコにあるスペイン司令部も含まれていた。 一方、フランスの港が長らくイギリスに海上封鎖されたため、フランスの士気は低下していた。ニューファンドランド植民地(英語版)のシグナルヒルの戦いにおいてフランス軍が敗北した報せが伝わると、フランスの士気がさらに低下した。
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