くろべのたいよう〔くろベのタイヤウ〕【黒部の太陽】
黒部の太陽 (くろべのたいよう)
石原裕次郎主演の映画。昭和43年2月17日公開。製作は三船プロダクション・石原プロモーション、配給は日活。黒部ダム建設に際して、大破砕帯にぶつかった大町トンネル(関電トンネルと呼ばれます)建設の物語。当時大ヒットしました。ダムに関する映画としては最も有名。豪華キャスト、真迫の演技、迫力ある映像。石原裕次郎は「ボクは、これまでの人生全部を賭けた記念作としてこの『黒部の太陽』を忘れることはできないし同時に作り上げたことにそこはかとない誇りすら感じている」と語っています。小樽にある石原裕次郎記念館には、関電トンネルの映画セットが展示されています。 岩岡剛(石原)はトンネル掘りのためにはどんな犠牲も省みない父に反抗し、家を出て設計技師として図面をひいていたが、父の様子を見に黒部に行ったとき、現場責任者・北川(三船)の熱意を見て、めっきり体の弱くなった父に代わってトンネル掘りの指揮を取る。関電社長の太田垣は危機を乗り切るため莫大な資金を投入。北川や剛らの努力が実を結び、難所を突破。 監督熊井啓。石原裕次郎のほか、三船敏郎、滝沢修、志村喬、辰巳柳太郎、宇野重吉、芦田伸介、佐野周二、高峰三枝子、樫山文枝などが出演。 (→日本のダム:黒部)(→知識を深める:石原裕次郎と映画「黒部の太陽」) |
黒部の太陽
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/10/09 02:53 UTC 版)
『黒部の太陽』(くろべのたいよう)は、木本正次による1964年発表の小説、ならびにこれを原作とする1968年公開の日本映画である。
注釈
- ^ 石原慎太郎『弟』幻冬舎、1996年7月17日、216頁。ISBN 978-4877281199 。2021年3月1日閲覧。"慎太郎が映画会社に関西電力の影響力をちらつかして弟に「(関電の)連中は絶対に石原を見捨てはしないぞぐらいいわせるんだな」と激励してその通りの結果になったという。「となれば私は私でそこでのある責任を持たされ、うまくやれば日本のダリル・ザナックくらいにはなれたかも知れない」と自慢している。"。
- ^ 2021年2月27日 18:00 - 21:00 NHK BSプレミアムにて放送された『ありがとう裕さん さらば石原軍団「日本人が最も愛した男 真実の物語」』より。同年1月の石原プロの「解散式」を受けた特集番組。2021年3月3日現在、再放送・NHK見逃し配信・NHKアーカイブス収録などの予定は一切未定。
- ^ 広島ホームテレビでは、プロ野球広島東洋カープ対阪神タイガース戦中継を19:30 - 21:32に放送した関係で、21:38 - 翌0:52に繰り下げて放送した(途中『ANNニュースファイナル』『ANNスポーツニュース』を同時ネットで内包。直前の『一休さん』は後日に振り替え放送。出典:中国新聞、1979年10月8日、テレビ・ラジオ欄)。
- ^ ただし21:24 - 21:30は番組を一旦中断し、『ANNニュース』(20:54から繰り下げ)を放送した。なお開始時刻が20:02と半端なのは、通常は20時番組に内包され、同番組終了時に放送される番宣番組『ミニミニ招待席』(水曜は90分番組『水曜スペシャル』がある関係上、内包せず単独番組)を、この枠に独立して繰り上げたため。
- ^ 「その際も、海外公開用に2時間十数分程度に編集された1時間短縮バージョンを公開している」と監督した熊井などは話している[要出典]。
- ^ 「2021年1月16日、石原プロ解散」と一般には報じられたが、この日は会社から商号看板を下ろして創業者・石原裕次郎の仏前に戻す「解散式」の行われた日で[22]、会社自体はまだ存続していた。俳優マネジメント業務は同年3月31日を以て終了[22]、その後は版権管理業務に専念し[23]、同年12月までに清算を行う予定である[24]。「石原プロモーション」参照。
出典
- ^ “土井栄回顧展へようこそ・著者・木本正次「黒部の太陽」「東京地底」”. 土井栄回顧展 公式ウェブサイト. 2016年3月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年3月1日閲覧。
- ^ “黒部の太陽 : 日本人の記録”. 国立国会図書館サーチ. 国立国会図書館 (2002年3月22日). 2021年3月1日閲覧。
- ^ “黒部の太陽”. 信毎の本 オンラインショップ(信濃毎日新聞社). 2021年3月1日閲覧。
- ^ “黒部の太陽”. 国立国会図書館サーチ. 国立国会図書館. 2021年3月1日閲覧。
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w 「スクリーン ステージ 『企業タイアップ映画は起死回生薬?" ヤナギの下"狙う各社』」『週刊サンケイ』1968年8月26日号、産業経済新聞社、104頁。
- ^ a b c d e f g h i j k 「テレビ・スクリーン・ステージ 裕次郎が『栄光への五千キロ』を準備中」『週刊朝日』1968年10月4日号、朝日新聞社、112頁。
- ^ 『キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011』キネマ旬報社〈キネマ旬報ムック〉、2012年5月17日、240頁。ISBN 978-4873767550。
- ^ a b c 「テレビ・スクリーン・ステージ 五社協定のワク外で盛んな"大物"の共演」『週刊朝日』1968年8月30日号、朝日新聞社、104頁。
- ^ 吉原順平. “ショートフィルム再考-映画館の外の映像メディア史から・V(承前)”. 社団法人 映像文化製作者連盟. 2007年10月14日時点のオリジナルよりアーカイブ。2007年10月14日閲覧。
- ^ 松田美智子「三船敏郎の栄光とその破滅」『文藝春秋』2013年11月号、文藝春秋、2013年10月10日、ASIN B00FBKF8Y2。より。後に改訂され、松田美智子『サムライ 評伝 三船敏郎』文藝春秋、2014年1月9日。ISBN 978-4163900056。
- ^ 『レインボーマン ダイヤモンド・アイ コンドールマン大全』双葉社、2002年7月30日、157頁。ISBN 978-4575294422。
- ^ a b c d 「観客の目" 親方三菱"をきめこむ東宝の商魂」『週刊文春』1970年10月5日号、文藝春秋、24頁。
- ^ 「スクリーン情報 愛人と一緒に本妻の墓参り」『週刊平凡』1970年7月9日号、平凡出版、53頁。
- ^ 松岡功 (2016年6月21日). “松岡功(20)外部の力 百恵・友和コンビ誕生 ホリプロと組み「伊豆の踊子」”. 日本経済新聞 (日本経済新聞電子版). オリジナルの2019年2月17日時点におけるアーカイブ。 2022年10月29日閲覧。
- ^ a b c “工藤監督が突如辞任 製作費で意見対立 宙に浮いた『超高層のあけぼの』”. スポーツニッポン (スポーツニッポン新聞社): p. 10. (1969年2月4日)
- ^ 「〔ルックげいのう〕 映画製作に乗り出した鹿島建設」『週刊現代』1968年6月27日号、講談社、31頁。
- ^ a b c 「〔タウン〕 前売百五十万と鹿島の組織票」『週刊新潮』1969年5月10日号、新潮社、15頁。
- ^ “黒部の太陽 ノーカット完全版 2013年1月26日(土)〜2月28日(木)まで東劇にて特別公開”. 東劇 (2013年1月29日). 2014年3月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年3月3日閲覧。
- ^ “シネマシティ|ニュース:石原裕次郎の“幻の名作”『黒部の太陽 完全版』を7月20日(土)より限定上映!”. シネマシティ (2017年7月24日). 2017年1月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年1月16日閲覧。
- ^ “映画「黒部の太陽」44年ぶり全国上映”. デイリースポーツオンライン (2012年1月6日). 2012年7月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月12日閲覧。
- ^ “オンエア情報”. 石原プロモーション公式サイト. 石原プロモーション (2014年2月25日). 2021年3月1日閲覧。
- ^ a b サンスポ [1] 2021年1月16日「石原プロモーション 16日に解散 58年前に起業した日に看板下ろす」、2021年3月3日閲覧。
- ^ 東スポ 2020年7月17日「石原軍団が解散へ 石原プロは業務を縮小」、2021年3月3日閲覧。
- ^ サンスポ [2] 2021年1月17日「舘ひろし「寂しいな」裕次郎さんに看板送還…石原プロ58年の歴史に幕(2/2ページ)」、2021年3月3日閲覧。
- ^ “「黒部の太陽」舞台で復活…主演・獅童「情熱全開だ」:芸能:スポーツ報知”. スポーツ報知 (2008年2月18日). 2009年2月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年2月2日閲覧。
- ^ “2003年文学座公演『龍の伝説』”. 文学座 公式ウェブサイト. 株式会社文学座. 2021年3月1日閲覧。
- ^ 弓一人『黒部秘境物語破砕帯をぬけ』集英社〈集英社漫画文庫〉、1984年2月1日。ISBN 978-4086127325。
- 1 黒部の太陽とは
- 2 黒部の太陽の概要
- 3 テレビドラマ版
- 4 ビデオグラム
固有名詞の分類
- 黒部の太陽のページへのリンク