鹿児島城下時代
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「中町 (鹿児島市)」の記事における「鹿児島城下時代」の解説
江戸時代には薩摩国鹿児島郡鹿児島城下下町のうちであった。 町屋敷群の西端に位置しており、町の北部には御舂屋(御着屋)があったとされる。元和元年(1615年)9月に鹿児島魚市場が設立され、24軒の店舗が置かれた。 御舂屋(御着屋)の北部は正徳3年(1713年)に発生した火災の後広場となり、境界には松並木が設けられたいう。明治時代前期の中町は平民が多く住んでおり、町人街であった。また、「鹿児島市史第一巻」によると中町には料理屋や芸妓営業、料理仕出、煮売屋などがあり歓楽街であったといえ、また商業戸数も多く金生町・呉服町とならんで鹿児島市の商店街を形成していたと判断が出来ると記されている。
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鹿児島城下時代
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「金生町 (鹿児島市)」の記事における「鹿児島城下時代」の解説
江戸時代の後期までの金生町は木屋町(きやちょう)と称しており、鹿児島城下下町のうちであった。 鹿児島城の南に位置する町屋敷であり、中町と共に商店街を形成していた。宝暦元年(1751年)に山形屋が呉服商として創業し、安政元年(1855年)には菓子製造業である明石屋が金生町にて創業した。 正徳3年(1713年)に町屋敷410軒、町屋1,872軒を焼失する大火が発生した。文政年間になり第25代薩摩藩主島津重豪が下町で大火が多発したことから、水戸の木町を金町(現在の茨城県水戸市金町)に改称したことに倣って、木屋町を金生町に改称することを幕府に願い出て、文政12年春に幕府の許可を受け、木屋町は金生町(かなふちょう)に改称した。 1879年(明治12年)に第百四十七銀行が設立され、本店を金生町に置いた。第百四十七銀行は現在の鹿児島銀行の前身にあたる。
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