高崎市と群馬県庁
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:55 UTC 版)
廃藩置県により明治4年10月(1871年12月)に誕生した群馬県の県庁は当初、高崎に置かれていた。しかし、県庁の建物は高崎城内にあり、軍事上の要地であったことから、翌年1月に政府の兵部省に接収されてしまった。当時の高崎には他に県庁舎として代用できる建物がなく、やむを得ず太政官に許可をもらい、県庁を前橋城内に移転した。この時は、高崎の住民も事情を察してか、大きな混乱が起こることはなかった。 だが、1873年(明治6年)に群馬県令(現在の群馬県知事)に就任した河瀬秀治は入間県(現在の埼玉県)の県令も兼任していたため、県庁のある前橋と川越のあいだ(距離にしておよそ100km弱)を頻繁に行き来しなければならず、業務に支障を来たした。政府はこの事情を考慮して、同年6月、群馬・入間両県を合併して熊谷県とした。熊谷県の県庁は熊谷に置かれたため、前橋は県庁所在地でなくなった。 ところが、政府が全国的に実施した府県の大規模統合により、3年後の1876年(明治9年)熊谷県がふたつに分割された。熊谷県の旧武蔵国の範囲が埼玉県に併合され、残りの範囲に栃木県からもらい受けた館林県をあわせて、再び群馬県が誕生し、県庁は高崎に戻った。しかし、以前県庁として使用していた高崎城は陸軍省(旧兵部省)に陣取られていたため、県庁舎に代用できる建物がなかった。とりあえず高崎にある安国寺を県庁舎としたが、手狭のために各課を分散配置して県政運営をしなければならず、業務は混乱を来たし、県令の責任問題にも発展しかねない状況に追い込まれた。 そのため、新たに群馬県令に就任した楫取素彦(吉田松陰の義弟にあたる)が、明治政府に前橋城内の建物を仮庁舎として使用させてもらえるよう交渉し、大久保利通内務卿の許可を取り付けた。高崎の住民に対しては、「県庁移転はあくまで一時的なものであり、地租改正の業務が終了すれば県庁を高崎に戻す」と約束して納得させた。 それから4年余りの歳月が経過し、前橋は政治の中心地としての機能が整いつつあり、経済力も備えていた。いまさら高崎に県庁を戻すメリットはないと判断した楫取県令は1880年(明治13年)11月に、住民にはあくまで内密にして松方正義内務卿に県庁舎を前橋に置きたいという旨の伺い書を提出した。そして翌年の1月、県庁を前橋に置くことが、太政官布告により正式に決定した。 高崎市民は突然の知らせに騒然となり、楫取県令の裏切り行為に激怒した数千人が県庁に押しかけ、あわや軍隊が出動する事態にまで発展したため、県庁移転問題は裁判にゆだねられることになった。 1882年(明治15年)3月に判決が下され、高崎住民の訴えは退けられた。これにより、県庁を前橋に置くことが確定したが、高崎の住民は納得したわけではなく、大正時代にも県庁移転運動が再燃した。しかしながら実現することはなく、ついに県庁が高崎にかえることはなかった。
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