飯尾宗祗とは? わかりやすく解説

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飯尾宗祗

読み方:いいお(いのお) そうぎ

室町後期連歌師。号は自然斎・種庵。連歌宗砌心敬専順師事、また和歌飛鳥井雅親東常縁に、古典有職一条兼良に学ぶなど修業努め将軍足利義尚をはじめ、多く公家武家がその講を請うまでとなった。又、各地歴遊して連歌普及門人育成貢献し多く歌論書紀行文歌集等を残した中でも新撰菟玖波集』は連歌集大成として知られている。文亀2年(1502)歿、82才。

宗祇

(飯尾宗祗 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/28 14:52 UTC 版)

宗祇像
山口県立山口博物館所蔵)

宗祇(そうぎ、応永28年〈1421年〉 - 文亀2年7月30日1502年9月1日[1])は、室町時代連歌師は自然斎[2]、種玉庵。は飯尾(いのお/ いいお)というが定かではない。生国は、紀伊[3] とも近江とも言われている[4]。市川文書に応永9年(1402年)信濃国を幕府領国と定め、飯尾左近将監爲清という人物を代官として下向させた旨の記述があるが関連は不明である。

人物

姉小路基綱宗長宗碩宗牧猪苗代兼載近衛尚通肖柏古今伝授を行ったとされる。また、大内政弘の庇護を受けた[5]。『筑紫道記』を著した[6]

肖像が複数残り、国立歴史民俗博物館の寿像は重要文化財で、図上には宗祇より古今伝授を受けた三条西実隆着賛する[7]ボストン美術館には狩野元信花押がある騎馬図(外部リンク)を所蔵し、また柿本人麻呂像に倣い脇息にもたれ団扇を持つ坐像がいくつか知られる(奈良県立美術館藤田美術館など)。

文安5年(1448年)信濃姨捨山を訪れ武水別神社神官邸で連歌会に参加。この年蜷川新右衛門親当が死去。

文明8年(1476年)将軍家連歌会の連衆となる。

長享2年(1488年)北野会所奉行(宗匠)となる。

出典

  1. ^ 島津忠夫『連歌師宋祇』岩波書店、1991年8月28日、269、299-300頁頁。ISBN 4-00-002516-3 
  2. ^ 三省堂編修所編、上田正昭ほか監修『コンサイス日本人名事典 第5版』三省堂、2009年、74頁。
  3. ^ 宗祇屋敷跡(県指定文化財) - 有田川町公式ホームページ 2023年10月11日閲覧。
  4. ^ 金子金治郎「飯尾宋祇」『国史大辞典吉川弘文館 [要文献特定詳細情報]
  5. ^ 福岡市総務局 1979, p. 61.
  6. ^ 福岡市総務局 1979, p. 77.
  7. ^ 絹本著色宗祇像(三条西実隆賛)”. データベースれきはく. 国立歴史民俗博物館. 2023年2月25日閲覧。

参考文献

  • 福岡市総務局 編『福岡の歴史(福岡市史普及版)』福岡市、1979年10月。NDLJP:9574393 (要登録)

関連項目

外部リンク



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