雑誌「メルツ」の発行
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「クルト・シュヴィッタース」の記事における「雑誌「メルツ」の発行」の解説
戦間期のドイツの政治情勢が安定しリベラルさを増してくると、シュヴィッタースの作品からはキュビスムや表現主義からの影響が薄れてくる。彼はアルプ、ハウスマン、ツァラといった国際的な前衛芸術家のメンバーたちとともにチェコスロバキア、オランダ、ドイツなど各地を回る、挑発的な内容の夕べのリサイタルと講演会とを組織した。 シュヴィッタースは、やはり『メルツ』と題した定期刊行物を1923年から1932年にかけて発行した。『メルツ』の各号はあるテーマを取り上げており、例えば1923年発行の5号はハンス・アルプの版画作品集であり、1924年の8/9号ではエル・リシツキーが編集とタイポグラフィを行い、1925年の14/15号ではシュヴィッタース、ケッテ・スタイニッツ(Käte Steinitz)、テオ・ファン・ドースブルフが「かかし」と題された子供向けの話をタイポグラフィ上の実験を交えて著した。1932年の24号(最終号)はシュヴィッタースの音響詩「ウルソナタ」(Ursonate)の最終稿を完全に転写したものがヤン・チヒョルトのタイポグラフィーにより掲載された。 この時期の彼の作品は精神の上ではモダニズムへと近づいた。政治的文脈を公然と見せることはほとんどなくすっきりした表現スタイルを見せ、ハンス・アルプやピエト・モンドリアンらの当時の作品に近づいていた。この時期のエル・リシツキーとの交友は非常に影響が大きく、メルツ絵画にも構成主義の影響が強く出た。 シュヴィッタースの生涯の親友でパトロンでもあったアメリカ人キャサリン・ドライアーの助力により、1920年以後にはアメリカ合衆国でも継続的に個展を開いた。1920年代後半にはアメリカでもよく知られたタイポグラファーとなった。最もよく知られた作品はカールスルーエのダンマーシュトック(Dammerstock)にヴァルター・グロピウスらが建設したジードルング(集合住宅)のためのカタログであろう。1924年にデア・シュトルム画廊が終わると彼はメルツヴェルベ(Merzwerbe)という広告会社を作り、バールセン(Bahlsen)のビスケットやペリカンのインキなどの広告をデザインし、1929年から1934年までのハノーファー市議会の公式タイポグラファーとなった。これらのデザインの試し刷りや校正刷りの多くは、メルツ絵画の素材とするため切り刻まれた。ヤン・チヒョルトの「Die neue Typographie」やバウハウスのヘルベルト・バイヤーのタイポグラフィの実験同様、シュヴィッタースも1927年にドイツ語の発音に基づく新たなドイツ語のアルファベット体系を提案した。そのうちのいくつかは実際に活字が鋳造され作品に使用されている。1920年代後半にはドイツ工作連盟(Deutscher Werkbund)にも加盟した。
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