雑誌「メルツ」の発行とは? わかりやすく解説

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雑誌「メルツ」の発行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/29 20:24 UTC 版)

クルト・シュヴィッタース」の記事における「雑誌「メルツ」の発行」の解説

戦間期ドイツの政治情勢安定しリベラルさを増してくると、シュヴィッタース作品からはキュビスム表現主義からの影響薄れてくる。彼はアルプハウスマンツァラといった国際的な前衛芸術家メンバーたちとともにチェコスロバキアオランダドイツなど各地を回る、挑発的な内容夕べリサイタル講演会とを組織したシュヴィッタースは、やはり『メルツ』と題した定期刊行物1923年から1932年にかけて発行した。『メルツ』の各号はあるテーマ取り上げており、例え1923年発行5号ハンス・アルプ版画作品集であり、1924年の8/9号ではエル・リシツキー編集タイポグラフィ行い1925年14/15号ではシュヴィッタース、ケッテ・スタイニッツ(Käte Steinitz)、テオ・ファン・ドースブルフが「かかし」と題され子供向けの話をタイポグラフィ上の実験交えて著した1932年24号(最終号)はシュヴィッタース音響詩「ウルソナタ」(Ursonate)の最終稿を完全に転写したものがヤン・チヒョルトタイポグラフィーにより掲載された。 この時期彼の作品精神の上ではモダニズムへと近づいた。政治的文脈公然と見せることはほとんどなくすっきりした表現スタイル見せハンス・アルプピエト・モンドリアンらの当時作品に近づいていた。この時期エル・リシツキーとの交友は非常に影響大きくメルツ絵画にも構成主義影響強く出たシュヴィッタース生涯親友パトロンでもあったアメリカ人キャサリン・ドライアーの助力により、1920年以後にはアメリカ合衆国でも継続的に個展開いた1920年代後半にはアメリカでもよく知られタイポグラファーとなった。最もよく知られ作品カールスルーエのダンマーシュトック(Dammerstock)にヴァルター・グロピウスらが建設したジードルング集合住宅)のためのカタログであろう1924年にデア・シュトルム画廊が終わると彼はメルツヴェルベ(Merzwerbe)という広告会社作り、バールセン(Bahlsen)のビスケットペリカンインキなどの広告デザインし1929年から1934年までのハノーファー市議会の公式タイポグラファーとなった。これらのデザイン試し刷り校正刷り多くは、メルツ絵画素材とするため切り刻まれた。ヤン・チヒョルトの「Die neue Typographie」やバウハウスヘルベルト・バイヤータイポグラフィ実験同様、シュヴィッタース1927年ドイツ語発音に基づく新たなドイツ語アルファベット体系提案したそのうちいくつか実際に活字鋳造され作品使用されている。1920年代後半にはドイツ工作連盟Deutscher Werkbund)にも加盟した

※この「雑誌「メルツ」の発行」の解説は、「クルト・シュヴィッタース」の解説の一部です。
「雑誌「メルツ」の発行」を含む「クルト・シュヴィッタース」の記事については、「クルト・シュヴィッタース」の概要を参照ください。

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