関西青い芝の会結成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 17:36 UTC 版)
「全国青い芝の会」の記事における「関西青い芝の会結成」の解説
1973年4月29日には、関西の組織として大阪府に「大阪青い芝の会」が発足した。また同年9月には全国組織として「全国青い芝の会総連合会」が結成され、神奈川連合会創立メンバーの横塚晃一が会長に就任した。翌1974年には兵庫県・和歌山県、1975年には奈良県・京都府に青い芝の会が発足し、青い芝の会関西連合会として全国青い芝の会総連合会の中でも影響力を強めていた。第八養護学校建設反対運動をきっかけに1976年に全国障害者解放運動連絡会議(全障連)が大阪府内で結成され、横塚が初代会長に就任した。 1974年、兵庫県神戸市在住の福永年久(生まれは徳島県鳴門市)が、映画『さようならCP』をきっかけに青い芝の会へ加入。1976年に父との確執により家出、一人で青い芝の会神奈川県連合会へ「研修」に赴き、その3週間後に姫路市で自立生活を始めた。福永は兵庫青い芝の会の中心人物として、1978年には全国青い芝の会総連合会の常任委員となり、赤堀闘争や川崎バス闘争にも参加した。 青い芝の会は脳性麻痺者の団体であるが、同会主導の下に健全者の組織化も試みられた。重度障害者の自立に際しては、健全者による介護は避けられない問題だったからである。だが青い芝の会は健全者に対する告発型の運動が中心であったため、会員には健全者への敵対心や警戒心も強くこうした試みは賛否両論だった。 関西では介助者が中心となり、障害者の手足として協力する団体として「自立障害者集団友人組織関西グループ・ゴリラ」が組織され、出版部門として「リボン社」を設立した。しかしグループ・ゴリラ内でもリボン社専従職員が主導権を握る構図への反発が起き、主導権争いとなった。1977年10月17日には、関西青い芝の会、グループ・ゴリラ、リボン社三者共同で「緊急あぴいる」を出し事態の打開を呼びかけたが、1978年3月に全国青い芝の会は、グループ・ゴリラ、全国健全者連絡協議会を友人組織として認められないとして除名を通告した。その結果両会は解散し健全者の組織化は失敗した。重度障害者の多い大阪青い芝の会はグループ・ゴリラ解散に反対し、同年3月27日に関西青い芝の会を脱退してグループ・ゴリラ存続を決定したが、その後の混乱は免れなかった。 1982年、福永は全国活動を休止し西宮市へ転居。1988年、兵庫青い芝の会の活動拠点として西宮市に「阪神障害者解放センター」を設立。差別糾弾闘争を続けながら、姫路や神戸で作業所・デイケアを運営していたが、1995年に阪神淡路大震災で被災。復興活動を行うが過労により脳梗塞で倒れ、3年間寝たきりとなる。 2000年に介護保険制度が開始され、神戸市長田区で介護派遣事業所の NPO法人が設立され福永が代表に就任。さらに福永は2003年から支援費制度を用いて介護派遣事業所のNPO法人「遊び雲」を設立し、現在に至る。
※この「関西青い芝の会結成」の解説は、「全国青い芝の会」の解説の一部です。
「関西青い芝の会結成」を含む「全国青い芝の会」の記事については、「全国青い芝の会」の概要を参照ください。
- 関西青い芝の会結成のページへのリンク