長引く包囲戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 08:06 UTC 版)
延暦寺が浅井・朝倉勢の味方をしたことにより、織田軍は早期決戦を行うことができなくなり、明智光秀、佐久間信盛を主将として美濃・近江の国衆を中心に比叡山を包囲することになった。この間も摂津では三好三人衆が活動しており、長引く不利を悟った信長は包囲が1ヶ月に及んだ10月20日になって菅屋長頼を使者を立てて義景に決戦を促したが、黙殺されたという。 信長が比叡山包囲のため、身動きがとれなくなっていることを知った各地の反織田勢力はこの機に一気に挙兵することになった。信長が上洛戦で破った六角義賢が近江の一向門徒と共に南近江で挙兵し、美濃と京都の交通を遮断したほか、伊勢長島では顕如の檄を受けた願証寺の門徒が一向一揆を起こしている。また、三好三人衆は野田城・福島城から打って出て京都を窺っているが、これは和田惟政が食い止めている。 この時、木下藤吉郎、丹羽長秀は琵琶湖東岸の横山城で浅井軍が東岸を南下しないように守備していたが、一揆勢が美濃と京都の交通を遮断したことに対してこれを回復すべく11月上旬に出陣している。木下、丹羽の両勢は11月16日までに六角軍や一揆勢を破って交通を回復させたようである。また10月初旬に近江へ到着し、瀬田・草津間に展開した徳川家の援軍も、六角勢と繰り返し戦闘を行っていた。しかし、情勢は悪化する一方であり、21日には長島門徒の攻撃を受けた尾張小木江城で信長の弟信興が討死している。 一方、4月の織田軍の越前侵攻の際、旧武田家臣の大半が信長のもとに参集し、一旦、織田の勢力下に入った若狭には、10月に入り朝倉軍の別働隊が侵入し遠敷郡まで進んだ。朝倉軍の侵攻により、山県秀政、粟屋右京亮、武藤友益らが朝倉方へ寝返り、小浜では親朝倉勢力の武田信方による統治が開始される。しかし、粟屋勝久ら親織田勢力も残っており、若狭では両勢力による戦いが朝倉氏滅亡まで繰り返されることとなる。 その一方で、織田軍との戦いに敗れた六角氏は11月には信長と和睦して戦線を離脱した(朝倉義景への弁明を記した11月26日付の六角義賢の書状が伝わっている)。
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