長宗我部元親とは? わかりやすく解説

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長宗我部元親

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/20 06:38 UTC 版)

長宗我部 元親(ちょうそかべ/ちょうすがめ もとちか)は、日本の武将戦国大名長宗我部氏第21代当主。幼名は弥三郎土佐国岡豊城主・国親の長男。


注釈

  1. ^ 元親の墓所については死後約100年後の『土佐軍記』まで記されておらず、元親の法名は「雪蹊恕三」、信親は「天甫常舜」であることから、元親の墓が雪蹊寺境内ではなく天甫寺山腹にあることは不自然だという指摘もある[1]
  2. ^ 永禄4年(1561年)から自称した官位。豊臣時代に正式に侍従になるも元親はこの官位を書状に用いることが多く、「長宮」と書いている[2]
  3. ^ a b 阿波の細川氏之(持隆)の側室で後に三好実休の正室となった人物も、同じ小少将という名である[78]
  4. ^ 父の長宗我部国親も土佐守護・細川高国から偏諱を受け、国親と名乗っている。
  5. ^ 『元親記』によると「覚世死去の砌をも差し緩めず。長浜・薊野二口よりの手遺おびただし」とあり、国親が死んでも本山氏攻撃を続けた[3]
  6. ^ なお、茂辰は病死したとする史料的根拠はなく、『長宗我部地検帳』に記載された「本山大夫入道」を出家後の茂辰の姿とする説がある。この説によれば降伏した茂辰は出家を条件に助命されて元親の庇護に置かれたものの、これに納得しない妻(元親の姉)や家臣が親茂を擁して抵抗を続けたとする[4]
  7. ^ ただし、『元親記』には「元山と弓矢十二年」という記述があり、本山氏との戦いが本格化した永禄3年から12年目で戦いが終わったと考えると本山氏関係文書の終見である元亀2年(1571年)と一致することから、親茂の降伏は元亀2年のこととする説もある[4]
  8. ^ 『元親記』では「四国の儀は元親手柄次第に切取候へ」と信長の朱印状を与えたとされている。[6]
  9. ^ 元親が三好氏との戦いを進めるために織田信長だけでなく毛利輝元とも関係を強めて三好氏を孤立させる外交路線を取っていたが、信長による中国攻めの本格化後も元親がその方針を変えなかったために信長が元親の向背を不安視して不信感を抱いたとする見方もある[7]。一方で、毛利氏と長宗我部氏の関係は毛利氏と三好氏が和睦をした天正6年段階で破綻しており、長宗我部氏と讃岐香川氏の連携(香川親和の養子縁組)自体が毛利・三好両氏による脅威を受けてなおかつ親織田派であった両氏の利害の一致によるものだとする見方もある[8]
  10. ^ 信長と敵対していた三好康長が信長に降り、三好氏本領である阿波の回復を信長に願い出ていた。また元親に圧迫された河野氏も信長に援助を求め、西園寺公広などに至っては「元親は西国の名将であり、将来的には信長に屈せず反抗するでしょう」と述べて援助を求めたという(『元親記』)[9]
  11. ^ 明智光秀は縁戚関係から使者を土佐に送って元親の翻意を求めたが、元親は返事すら寄越さなかった[10]
  12. ^ ただし、『石谷家文書』によると元親は信長の命に従い撤退したとある。[12]
  13. ^ 元親の正室は光秀の重臣である斎藤利三の異父妹で信長の四国の違約に恨みをもった利三は本能寺の変で主導的な立場を務めた。『言経卿記』では「日向守(光秀)内斎藤蔵助、今度謀反随一也」とあり、『元親記』では「斎藤内蔵助四国の儀を気遣に存ずるによって也。明智殿謀反の事いよいよ差し急がるる」とある。『天正十年夏記』でも利三が謀反で主導的役割を果たしたとある。
  14. ^ 信長が四国全土を元親に与えると承知しておきながら違約した事に信長・元親間の仲介を務めた光秀は板ばさみになり困ったし、また光秀は四国征伐の任は自分に与えてほしいのに信長が与えてくれなかった事に不満を抱いたという[13]
  15. ^ 『香宗我部家伝証文』では元親は信孝と通じていたことを示す書状がある。勝家は高野山を通じて元親と通じていた[14]
  16. ^ 5月13日付の秀吉の仙石宛の書状で播磨・備前の軍を四国に向けるとしている。5月20日付では水軍を大坂に集結させるよう命令している(『石井文書』)[17]
  17. ^ 『香宗我部家伝証文』では親泰を窓口にして織田・徳川と書状を交換している[18]
  18. ^ 家康は元親に3カ国(8月19日付の本多正信の親泰宛の書状では「淡路・摂津・播磨」としている。また信雄は吉良親泰に備前を与えるとしている)を与えることを約束した上で渡海して摂津か播磨を攻撃してほしいと求め、秀吉も元親の動きを恐れて小牧在陣中に大坂に帰ったりしている。だが元親には伊予平定や小領主の抵抗、毛利軍の動き、仙石・十河の抵抗もあって容易に動けなかった[19]
  19. ^ 『桂文書』では桂元親が長宗我部軍に苦戦したことを示す書状がある[21]
  20. ^ 元親は秀吉の鋭鋒をかわそうと使者を派遣して進物を贈呈した。だが秀吉は4月に小早川隆景に近く四国出兵を行う旨を伝えたという(『小早川文書』)[23]
  21. ^ 元親は讃岐・阿波を返上する代わりに土佐・伊予2国を領する案(『小早川文書』)も出しており、秀吉もこの案に乗りかけたが伊予を巡って元親と対立関係に転じていた毛利氏が同国の領有を目指して強硬な態度を示したためにまとまらなかったという[24]
  22. ^ 「四国の騒動斜ならず、武士東西に馳違ひ、男女南北に逃迷ふ」(『土佐物語』)[25]
  23. ^ 元親は出陣前に亡父・国親の墓前に詣でて覚悟を表明している[26]
  24. ^ 谷は「(豊臣軍は)武具・馬具綺麗にして光り輝き、金銀を鏤めて、馬は大長にして眉上るが如し。武者は指者・小旗を背に屹とさしていかめしき体なり」と述べ、土佐の一領具足の粗末な軍備と経済基盤の脆弱から到底敵対できないと忠言した(『南海治乱記』)[27]
  25. ^ 秀吉は6月の時点で勝利することを予測しており、小早川隆景に伊予を与え、元親に土佐を安堵することを考えていたという[28]
  26. ^ 『元親記』や『土佐物語』など多くの史料でこの上洛による元親の安否を国許では心配していたという。また『土佐物語』で元親は土佐一国の領主になったことに満足し、かえって秀吉に感謝したとしている[28]
  27. ^ 元親は仙石の強攻策に対して味方の到来を待って攻めるべき、島津方の伏兵の恐れあり強敵であるとして出陣に反対していた(『元親記』。『土佐物語』)[32]
  28. ^ 天正15年から移転は開始されていたという。理由は交通や生産地の肥沃を求めてという[33]
  29. ^ 成人していた次男と三男を嗣子にしなかったのは信親の娘を正室にする場合の年齢差だったという[34]
  30. ^ 一門以外に、有力家臣まで多く粛清されている[35]。また、親興と親実の粛清は同時ではない(親実は当初は所領没収のみであったが、後日殺害された)とする説もある[36]
  31. ^ 言経卿記』。訪問の内容は不明だが、覇権を狙う家康は元親に味方してもらいたいという誘いの意味があったと思われる[45]
  32. ^ 家臣団は「智謀勇気兼備して、尤も大将の才なり」「当国は申すに及ばず、四国の主に御成なさるべき大将の御分別」と評した(『土佐物語』)。
  33. ^ 『元親記』では元親が「(狭間を)人の胸のあたりを当て切たるが能候」と言い、垣見は「(狭間を)もっと上げるべき」と主張して論争になった。垣見は「(狭間を)さげて切ては敵、城の内を見入て悪かりなん。只上げん」と主張し、元親は「此門脇へ敵心安く付て城中を看候程に、城の内弱くして城もたるまじ」と笑い、「其方好みのごとく上げて切ては、敵のあたまより上を打つべきか」と主張したという[57]
  34. ^ 武家事紀』では、秀吉は仙石の独断専行で信親が戦死したことにかなり元親に対し後ろめたさを感じていたとしている[62]
  35. ^ 『土佐物語』では元親が「あたら者共を失わんことの惜しさよ」と述べたという。
  36. ^ このとき康長は土佐に向かって「斯る仁者に敵せし事こそ愚なれ。此の厚恩七生迄も忘るべからず」と涙を流して手を合わせて拝んだという[64]
  37. ^ 『元親記』では「誠に元親事、律儀第一の人にて、御上使御横目衆とあれば、頭を地に付け慇懃に仕られ候が、此時は以ての外なる存分にて有りし也」とある。
  38. ^ 同史料では「元親は不仁不義の大将にて、諸軍勢の内、名も聞えたる英雄共与力して、戦場に粉骨したる者にも恩賞の沙汰もなく、却て質に取たる諸将の子供を串ざしにして楽しむほどの悪逆故、各々離れ離れに見捨、討死したる妻子供をも恵む事もなく、此人の果こそ思ひやられたれと悪まぬ人ぞなかりけり」とある[66]

出典

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