重装甲・重武装化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/02/28 02:48 UTC 版)
蝦夷地御用船の主力となった似関船は当初から有時の軍用を考慮していたが、文化露寇を受けより戦闘を重視した船が新たに建造されることになる。この船は文化4年7月に水主同心露木元右衛門が、対ロシア用軍船の最有力案として挙げている。露木はその他の案として押送船型の早舟・関船・バッテラ・小早やちょろ船があるが説明は簡略で、本命は総矢倉の弁才船であった。露木の案では従来の似関船を原型に、400石積みから500石積み程度の船を5艘程建造する。無風時用に櫓12挺立てとして、矢倉内部は菰莚・古畳・鉄網の幕・木綿の幕で、船首と船尾は莚・幕・竹束で防御とする。船体は3つに仕切り、台(船縁)を2重にして喫水を台際に入れることで、砲撃を受けても上部構造物が破壊されるだけで浸水しないとしている。また平時は商船、有事は軍船として使用することを想定している。 重装甲・重武装の似関船は500石積みの全真丸・寿昌丸・龍翔丸・帰徳丸が最初に建造され、この内の文化4年に全真丸・寿昌丸が下北半島の川内で、同年に龍翔丸が松前で、また帰徳丸は比定される図面から翌5年に嘉兵衛が建造したと考えられる。4艘の内、龍翔丸・帰徳丸と見られる船の絵図が現存しており、両者の相違点として龍翔丸は朱塗りで総矢倉の垣立を廃しているが、帰徳丸は白木造りだが艫矢倉・砲門に彫刻があり垣立も残している。 両船共に矢倉は厚板で囲われ、通常の似関船では矢倉上にある舵柄(舵の操舵部)が矢倉内にある。船体は喫水線に位置する上棚が2重・3重の板で構成され、更に帰徳丸の絵図によると船体は3つの隔壁で区画されていた。武装についても帰徳丸には片舷に5つの砲門が開かれ、また龍翔丸には矢倉内に片舷8つ、矢倉上には9つの砲門が開かれ、更に船尾には大筒2門が置かれている。他の船も上棚の構造が同じであり、他の特徴も同様と考えられる。露木の案と実際に建造された船を比較すると、櫓が未装備である一方、台の二重化を行わず、矢倉を厚板にして上棚も2重・3重にしたことから、直接的な防御を高めたことが分かる。
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