起源は柔道以外の柔術だったという説
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「ブラジリアン柔術」の記事における「起源は柔道以外の柔術だったという説」の解説
起源は柔道以外の古流柔術または新興の柔術だった、というストレートだが少数派の説である。 前田から直に教わったカルロス・グレイシーやグレイシーを経ないブラジリアン柔術家として知られるルイジ・フランサ・フィリョは、前田は「柔道」ではなく「柔術」とはっきりと言っていた、と証言している。そして、研究者の内田賢次は、前田光世は「柔道」と「柔術」をはっきり区別していたと、前田が書いた手紙から読み取っている。 柔道家(当時七段)の石井勇吉は自著で、サンパウロにあるブラジリアン柔術道場アカデミア・デ・ペドロ・エメテリオ柔術は古流柔術の流れをくむ道場だ、としている。石井勇吉の父親は古流柔術天神真楊流の石井清吉柳喜斎源正義であり、五男はエリオ・グレイシーの一番弟子ペドロ・エメテリオのアカデミア・デ・ペドロ・エメテリオ柔術で立ち技の指導員であったチアキ・イシイ(ミュンヘンオリンピック柔道銅メダリスト)である。 また、ブラジリアン柔術の起源が柔道とされるのは前田に柔道以外の柔術の経験がないとされていたのも一因だが、実は前田はロンドンの日本柔術学校 (the Japanese School of Ju-jitsu) で指導員をしており、新興か古流であるこの柔術を修得していた。この道場の設立者は谷幸雄と三宅タロー(三宅多留次)である。この柔術のセオリーが記載された両設立者による書籍『The Game of Ju-jitsu』によると、寝技では上の場合は柔道の抑込技状態が有利とされており、特にマウントポジションが有利とされている。バックコントロールやバックマウントについては特に記載はない。つまりは柔道とブラジリアン柔術の中間的なセオリーとなっている。書籍『The Game of Ju-jitsu』の日本語対訳本『柔術の勝負』の副題も『明治期の柔道基本技術』となっていて、この柔術は柔道に近いものであり、ブラジリアン柔術の起源がこの柔術だとしても、柔道とする説ともさほど矛盾はない。監修をつとめた内田賢次は、日本柔術学校の技術的背景について、谷幸雄は柔道(当時初段)と天神真楊流柔術や不遷流柔術などの古流柔術、三宅タローは起倒流、竹内流、不遷流で柔道は講道館での調査の結果、段位の取得が確認できなかった、としている。書籍『The Game of Ju-jitsu』に掲載された筆者写真でも谷が黒帯を締めているのに対し、三宅は不遷流免許皆伝でありながら当時の古流柔術の慣習と同様、黒帯を締めていない。両者が経験した不遷流は、寝技が優れている、として知られている流派である。
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