財界で
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 04:55 UTC 版)
1909年に慶應義塾大学理財科を卒業し、「久原鉱業所」(後の日産コンツェルン、現・JXTGホールディングス等)に入社した。在学中より三井物産に入りたいと考えていたが、井上馨の側近に久原鉱業所を勧められたため、大阪へ向かう社長の久原房之助と新橋駅の待合室で会い、久原鉱業所の東京事務所に雇われることになった。 1910年に武藤山治の仲人で、大阪・船場の綿糸問屋・八木商店(現・ヤギ)の創業者・八木与三郎の長女・義と結婚した。翌年には久原鉱業所が大阪に支店を設けることになり、大阪と縁深い杉が行くことになったのだが、武藤にこの話をしたところ「せっかくの大阪なんだから繊維の方をやったらどうか」と言われ、久原の快諾を得た杉は大阪で繊維工業に関わっていくことになる。 最初の仕事は堺市の小さなタオル工場「堺製織所」の整理だった。当時の紡績業界では工場が乱立し、職工の争奪戦が起こるなど気苦労が多かった。メリヤス地の統一を行うなど、品質の均質化にも苦心した。 1912年に浪速紡織(現・ダイワボウホールディングス)が設立され、武藤の肝いりで会社を任されることになった。同年から八木商店にも関わるようになった。1910年~1920年代に掛けては大戦景気とその反動の不況で市場は大混乱に陥った。八木商店や浪速紡績なども甚大な損失を被った。繊維業界では「総解合い」が行われ市場が安定したが、債務支払いのために自宅を売り払い、天下茶屋などの借家を転々とした。 1923年には武藤が政界を革新すべく「実業同志会」を結成し、杉も会員となった。同志会は翌年の第15回衆議院議員総選挙に候補を送り、武藤をはじめ12人の当選者を出した。杉も幹事長役をしたが、選挙には門外漢ばかりで選挙活動が選挙違反に引っ掛かり、2ヶ月にわたって拘引されてしまった。杉は判事に諭され、独居房でたくさんの本を読んだ。杉自身は、「この独房生活はわたしにかなりプラスになったと思う」と述懐している。
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