ヤギ (企業)
八木商店
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 02:59 UTC 版)
前身の八木商店(やぎしょうてん)は、「関西五綿・船場八社」(関西五綿=丸紅・伊藤忠商事・日綿実業・東洋綿花・江商、船場八社=又一・岩田商事・丸栄・田附・竹村綿業・竹中・豊島・八木)といわれた中の「八社」の1つで、第二次大戦後における商社大型化や、アメリカの海外資産没収等の激しい流れのなかで、八社のうち唯一生き残った繊維商社であった。 八木商店の創業者であった、八木与三郎(1865年1月生まれ)は、家業が京都の米穀商で、父重助は京都米穀取引所を務めていた。与三郎は、明治15年、大阪に出て父重助の実弟藤本清兵衛の米穀問屋に丁稚奉公に出た。のちに藤本家から融資を受けて、大阪唐物町堺筋東側で綿糸商八木商店を開業したのは明治26年であった。 八木商店では、泉州紡績、摂津紡績、大阪紡績などの国産綿糸を主として取り扱い、輸入綿糸にはそれ程力を入れてはいなかった。神戸の外国商館であるシモインバー、アーレンス、ブラウン商会などからイギリス本国やボンベイの綿糸を輸入した。それは神戸で先物約定の期日に銀貨で代金を支払って現物を引き取る「見込み商内」であった。 八木商店は開業3年後の明治29年、店舗を拡張して大阪南久太郎町に移転し、同年には輸出部を開設した。さらに、38年に下村紡績所の経営を引き受け、これを45年に浪速紡績と社名を改称、与三郎が社長に就任した。その間、41年に八木商店は綿布部を兼営した。 八木商店の経営発展を考える場合、見逃せないのは与三郎の娘婿で、のちの八木商店社長となった杉道助の企業者活動である。杉の祖父民治は、吉田松陰の実兄にあたり松陰の血を引く杉には国士的な風格が感じられたといわれる。杉は明治42年慶應義塾卒業後、久原房之助の久原鉱業所に入り、その翌年武藤山治夫妻の媒酌で、与三郎の長女義と結婚した。それ以降、杉は八木商店の経営との関わりを持つようになり、大正6年には同店取締役、昭和18年に社長に就任した。
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