調所と改革の人的体制
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「薩摩藩の天保改革」の記事における「調所と改革の人的体制」の解説
調所を改革主任に抜擢した重豪は天保4年1月15日(1833年3月6日)、89歳の高齢で亡くなった。重豪の没後、藩主斉興は天保4年3月、改めて調所に朱印状を交付して改革主任として信任するとともに、改革の続行と一段の精勤を命じた。実際重豪、斉興から信任された調所は改革に精勤した。調所は毎日早朝に起床して朝から自宅で来客に対応し、勤務後も自宅で多くの来客に対応するのが常であり、就寝はいつも深夜であった。またほぼ毎年薩摩と江戸を往復していたが、大坂、京都そして江戸で金銭出納に関する諸事に対応した。調所は国許と江戸との旅路中も気を抜くことは無く、各地の統治状況、産物、そして風俗のあり方ににアンテナを張り、改革に利用出来ると判断した事物は採用した。 改革の進展に従って調所は昇格を繰り返し、天保9年8月25日(1838年10月13日)には家老、側詰兼務となった。出世をしても調所の生活自体は質素であった。これは後述のように調所の改革には反発も強く、身を慎まねば足下を掬われかねなかったことも要因であった。そして調所は改革の遂行にのために様々なことに気を配り、「調所の思慮は十分を超えて十三分だ」と言われるほどであった。失脚した斉宣に対しても配慮を怠らず、改革に悪影響を与えないよう腐心している。 調所は重豪が開設した趣法方を改革の拠点としたが、改革の推進実務を担う御内用掛という職務を新たに設けた。御内用掛には趣法方出身者の他、下士、在郷家臣のみならず、町人からも有能な人物を採用していった。例えば調所が重用した海老原清熙も下士の出身であった。調所は多くの男女を抱え人間関係が複雑である江戸藩邸には経験を積んだベテランを配置するなど、適材適所の人材配置に気を配った。改革の実務を担う各部署に責任者を置く分担制とし、部署ごとに独立採算制を取った。そして不正の防止のために監査体制も整備した。このように地位にとらわれることなく有能な人材を登用し、新たな組織を作り上げ、改革を推進していった。
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