調所広郷の琉球開国・貿易構想と長崎商法
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「薩摩藩の長崎商法」の記事における「調所広郷の琉球開国・貿易構想と長崎商法」の解説
長崎商法の復活に尽力した調所広郷は、弘化3年(1846年)に琉球を訪れたフランスインドシナ艦隊のセーシュ総督による琉球開国・通商要求時に、一方では幕府と協議して琉球における貿易開始についての黙認を取り付けながら、幕府には内密にフランスとの交易以外に、再開されたばかりの長崎商法で品替えを要求されていた5品目について、フランスとの貿易開始にかこつけて輸入が可能となるともくろんだ。琉球側は調所の構想に対して、薩摩藩側の支援の下でフランスとの貿易を開始し、品替えを要求されている5品目の貿易が可能となれば利益を得ることはできるだろうが、貿易を拡大すれば産業基盤が脆弱な琉球にとって貿易増大に関わる諸経費が重くのしかかり、農民たちの生活がさらに困窮し立ち行かなくなり、また清とも貿易を行っているフランスを通じて日本と琉球との関係が明るみに出ると、進貢に悪影響を与えると強く反対した。 結局、フランス側からの琉球開国・通商要求は、嘉永元年(1848年)7月に琉球に滞在していたフランス人宣教師のル・チュルジュが退去したことにより琉球とフランスとの接触は一旦途切れることになった。そして嘉永元年(1848年)12月には、薩摩藩内で藩主斉興派と世子斉彬派との権力闘争が激しさを増す中で、斉興の腹心であった調所広郷は不審死した。その後も続いた激しい政争の後、嘉永4年(1851年)2月に斉興は引退し、斉彬が新藩主となった。このようにして調所の琉球開国・通商計画は頓挫したが、琉球開国については斉彬によってさらに大規模なものが構想されることになる。
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