調所による改革体制構築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 08:38 UTC 版)
「薩摩藩の天保改革」の記事における「調所による改革体制構築」の解説
重豪の命により改革の責任者を引き受けることになった調所は、まず資金繰りのため大坂へと向かった。極度の財政難が知られ、しかも先年の藩債破棄騒ぎなどの経過もあって、大坂での資金調達は難航する。しかし先だっての高橋甚吾兵衛による改革以降、薩摩藩側との繋がりが出来ていた出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛とのつてが利用できた。平野屋彦兵衛は平野屋の本家に当たる平野屋五兵衛を巻き込むことに成功し、結局平野屋五兵衛を始め5名の大坂商人が薩摩藩への融資を担うことになった。 資金繰りの目途を立てた後の文政11年(1828年)10月、重豪、藩主斉興らから調所は改革主任就任を正式に申し渡された。続いて調所は薩摩藩への融資を行う大坂商人の出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛と正式契約を結ぶことにしたが、ここでトラブルが起きた。契約に際して重豪との面談が予定されていたのであるが、前日になって「このような粗末な品を差し出す者に当家の改革が出来るとは思われぬ」と、重豪は面談を断って来たのである。翌朝、重豪のもとを訪れた調所は、出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛が薩摩藩に融資する金を持参していることを説明すると、予定通り面談を認めた。大坂商人との関係性に苦慮していた重豪は、融資話に安易に飛びつかず慎重になっていたのである。文政11年11月21日(1828年12月27日)、出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛は重豪からの保証を取り付け、調所による改革体制が整った。なお、融資の見返りとして出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛らは薩摩藩の砂糖販売利権を手中にしており、大坂から持参した資金も重豪からの保証取り付け後、様々な条件を詰めたうえで薩摩藩側に融資した。重豪ばかりでなく融資する出雲屋孫兵衛、平野屋彦兵衛もまた慎重であった。 出雲屋孫兵衛は調所の腹心として薩摩藩の改革に活躍した。天保元年(1830年)2月には30人扶持が与えられ、12月には浜村姓を名乗ることを認め、島津家家臣に準じる扱いとなった。
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