観光地としての歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 02:59 UTC 版)
1960年(昭和35年)には神岡町流葉山一帯、宮川村ニコイ高原とともに奥飛騨数河流葉県立自然公園に指定された。1963年(昭和38年)には奥飛観光開発(名鉄系企業)による「数河高原スキー場」が営業を開始し、1973年(昭和48年)にはスキー場・ゴルフ場・ホテルを併設した「飛騨ハイランド」(経営:飛騨ハイランド観光)が設立された。スキー場の開発を草分けに、民宿が付随して発展していき、1968年の国道41号開通以降、観光地として栄えた。 また、藤井清喜(ふじい せいき)(1979年当時:岐阜県ラグビーフットボール協会副理事長)が冷涼な気候に着目し、1979年(昭和54年)5月に数河高原の民宿3軒のオーナーに対し、ラグビー合宿地としての受け入れを要請。民宿側も冬場のスキー客だけでなく、閑散期となる夏場の固定客を確保するため、藤井からの申し出を受け、手作りのラグビー場を整備するなどした。また、古川町もグラウンド5面を建設するなど、受け入れに積極的に協力した。そのような受け入れ策が実り、大阪・京都の強豪チームや四国・九州などの遠方のチームなども合宿に訪れるようになり、ラグビーのメッカとされていた菅平(長野県)に倣い「岐阜の菅平」の名が定着するようになった。 1990年代ごろまでは冬のスキー客や、夏の(高校・大学)ラグビー部の合宿からの需要が高かったが、数河峠の交通量は1978年(昭和53年)をピークに減少。また、周辺の道路網(東海北陸自動車道・安房峠道路・国道360号)の整備により、交通の流れの変化が生じたことに加え、スキー人口の減少や、奥美濃地方・富山県内のスキー場との競合のあおりを受け、2003年(平成15年)3月23日には「パルクすごうスキー場」(旧:数河高原スキー場)が営業を終了。加えて、2000年代にはラグビー人気低下の影響を受け、合宿に訪れるラグビーチームの減少などにも悩まされるようになったほか、過疎化や農業の低迷が進み、休耕田も増加するようになった。 2000年代以降は、グリーンツーリズムの開催や、地元の休耕田で栽培・収穫したソバを用いた「数河そば」の提供、「お助け水」と呼ばれる湧水を用いた休耕田でのワサビ栽培、特産品であるタケノコを加工した缶詰「飛騨 菅生(すがふ)竹の子」の販売など、地域おこしに力を入れている。
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