西南戦争後の逸話
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西南戦争後の雪篷の姿を伝えるエピソードがある。明治12年(1879年)に来鹿した頭山満の回想では、「西郷家には、当時七十歳ぐらいの川口雪篷という詩書をよくする老人が家令をつとめていた」(実際には、雪篷は当時62歳)とあり、頭山は、開口一番「南州翁に会いたい」と言ったが、雪篷は「西郷が城山で斃れたことも知らないのか」と呆れたように一喝した。頭山はそれに答えて「西郷の精神ぐらいは残っているだろう」と答え、以下の会話が交わされたという。 雪蓬、悵然之に謂て曰く『十年役前の鹿児島は、有用の人材輩出せしも、今や、禿山と一般、人才一空、復言ふに忍びざるなり。樹を植ゆるは、百年の計なり。想ふに西郷の如き巨人は、百年又は千年にして一たび出づるもの。而して、斯人再び見る可からず』と。満乃ち雪蓬に就て、西郷遺愛の文藉を見んことを求めしに、雪蓬『洗心洞箚記』を出し、満に謂て曰く『是れ、西郷が南島謫居中愛読して措かざりし書なり』と。満披て之を読むに、書中往往隆盛の手記に係る註あり。満、垂涎措かず、雪蓬に請ひて之を借り、飄然去て之く所を知らず。後、雪蓬、其返却を逼ること甚だ急なり。居ること一年。満、再び鹿児島に遊び、雪蓬に見えて、其書を返しゝに、雪蓬大に喜び、更に『王陽明全集』を出して之に贈り、却て其軽忽を謝したりと云ふ。 — 『西南記伝』から引用 文中の『洗心洞箚記』とは、天保の大飢饉の際に万民の窮状を顧みない大阪奉行所の悪政に敢然と立ち上がった大塩平八郎(中斎)が記した講義録で、西郷に限らず幕末維新の志士の間で愛読されたという。陽明学に傾倒した雪篷らしい発言で、身近に在って西郷の真意をどれほど汲んだものかは分からない。沖永良部島は西郷の「敬天愛人」思想の培養基であり、一説には本土から1,200冊あまりの本を取り寄せていたそうである。したがって、上の発言は雪篷の側から見た主観的見解ともいえるが、雪篷は西郷が事の成否を省みずに義挙に出た精神を訴えたかったのだと理解するのも可であろう。
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