薩土討幕の密約以降
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慶応3年(1867年)5月、江戸でオランダ式騎兵学を学んでいた乾退助は、山内容堂に随行して土佐に帰国の途中の京都で、中岡慎太郎からの決死の手紙受け取り感銘を受ける。5月18日、京都の料亭「近安楼」で乾退助は中岡慎太郎と時勢について会談し、続く5月21日、中岡の仲介で乾退助は、土佐藩の谷干城や毛利恭助らと共に、薩摩藩の西郷吉之助・吉井幸輔らと薩摩藩士・小松帯刀邸で密談を行い薩土密約を結び、これを翌22日に山内容堂に報告し、軍制改革を行う旨の同意をとりつけ、大坂で武器を買いつけて帰藩した。 乾退助は土佐に戻るや兵制改革に着手し、弓隊を廃して砲術隊を組織して、藩論を武力による勤王討幕にまとめ、さらに佐々木高行らの努力によって遂に藩庁を動かして、雅事ら旧土佐勤王党員らを釈放させた。雅事は9月6日に釈放され、そのまま京都藩邸の留守居役に任ぜられた。
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薩土討幕の密約以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/12 04:02 UTC 版)
1867年6月(慶応3年5月)、江戸でオランダ式騎兵学を学んでいた乾退助は、山内容堂に随行して土佐に帰藩の途中の京都で、中岡慎太郎からの決死の覚悟の手紙を受け取り感銘を受ける。同6月20日(旧暦5月18日)京都の料亭「近安楼」で乾退助は中岡慎太郎と時勢について深く談を交わし、続く同6月23日(旧暦5月21日)、中岡の仲介で乾退助は、土佐藩の谷干城や毛利恭助らと、薩摩藩の西郷吉之助、吉井幸輔らが薩摩藩士小松清廉邸で密談を行い薩土討幕の密約を結び、これを翌6月24日(旧暦5月22日)、山内容堂に報告し、軍制改革を行う旨の同意をとりつけて、大坂でアルミニー銃300挺などの武器を買いつけて帰藩した。 乾退助は土佐に戻るや兵制改革に着手し、旧来の北条流の弓隊を廃して洋式砲術隊を編成なさしめ、藩論を瑞山の遺志である武力による勤王討幕にまとめあげ、さらには佐々木高行らの奔走によって遂に藩庁を動かしめ、獄中の安岡正美や島村雅事ら土佐勤王党の志士らを釈放せしめた。
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