蔣介石への反発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:30 UTC 版)
1926年(民国15年)7月、広州国民政府が北伐を開始すると、李書城は湖南省でこれを迎え、北伐軍総司令部顧問に任じられた。しかし、翌年4月の上海クーデターを起こした蔣介石に対し、国民党左派・容共の李は反感を抱くことになる。8月、湖北省政府常務委員兼建設庁長となったが、蔣側の軍勢の圧力に屈して辞任に追い込まれる。さらに弟の李漢俊を殺害されてしまった。後に李書城は、反蔣勢力に与して中原大戦にも顧問として参戦している。 1932年(民国21年)3月、湖北省政府委員に任じられ、建設庁長・民政庁長を歴任したほか、省通志館館長にも任命された。省政府委員には、1937年(民国26年)1月まで在任している。しかし、蔣介石の政治方針とは常に対立し、馮玉祥や共産党との連携を強める政治的立場をとり続けた。日中戦争(抗日戦争)終結後の1948年(民国37年)、李書城は湖北省で和平促進委員会を組織し、張難先らとともに国共内戦の調停を目指した。しかし事ならずと見て、次第に共産党への接近を強めた。 中華人民共和国成立後、李書城は中央人民政府の初代農業部長に任じられ、政務院財政経済委員会委員もつとめた。また、全国人民代表大会常務委員、中国人民政治協商会議全国常務委員にも選出されている。 1965年8月26日、北京にて病没。享年84(満83歳)。
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