蔣介石側近としてとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 蔣介石側近としての意味・解説 

蔣介石側近として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 15:29 UTC 版)

張群」の記事における「蔣介石側近として」の解説

その後は、黄郛頼って北京移り北京政府総統府総務処長交通部司長などを歴任した1924年民国13年10月北京政変首都革命)後、張群国民軍第2軍軍長胡景翼随従して四川省向かい河南省警務処長警備司令任じられた。しかし、胡がまもなく病没し、1926年民国15年)には呉佩孚により国民軍第2軍敗北したため、張群上海へ逃れている。 まもなく、広州国民政府蔣介石国民革命軍総司令として北伐開始したため、張群もこれに参加し国民革命軍総司令部参議任じられた。このとき、張群黄郛とともに上海へ赴き、浙江財閥幇会との連絡とりあって、蔣の権力基盤強化支援している。1927年民国16年8月、蔣が一時下野追い込まれると、張群もこれに従って下野したが、まもなく、蔣に随従して日本赴く。このとき、内閣総理大臣田中義一陸軍大臣白川義則らとの秘密会談を行った日本留学組のうち、かれが日本語が最もうまく何応欽蔣介石の順だったといわれる本田義彦台湾総統列伝』[要ページ番号])。 帰国後の1928年民国17年)、蔣介石中国国民党中央政治委員会(「中政会」)主席軍事委員会主席として復権すると、張群も中政会委員外交委員会委員任じられた。同年5月済南事件勃発の際には、来日して田中首相会談している。6月張作霖爆殺事件後には、呉鉄城とともに東三省張学良訪問し、これを説得して易幟導いたまた、この易幟前後にも再び来日して日本政府との交渉行っている。 これらの功績もあって、張群蔣介石から信任を受けることとなった同年11月国民革命軍総参謀長任じられる。さらに翌年3月には、国民党中央執行委員選出され上海特別市市長にもなった。国民党中央において新政学系という新たな派閥形成し、その指導者目されるうになる1930年代前半中国共産党掃討作戦では、豫鄂皖三省剿匪総司令部党政委員指導委員会常務委員任じられ作戦計画立案などを担当したその後東北異動し北平政務委員会常務委員などをつとめて対日政策実施にあたっている。1933年民国22年7月には、湖北省政府主席任命された。このときに、共産党掃討成功したほか、財政整理災害からの民衆救済推進し実績をあげた。

※この「蔣介石側近として」の解説は、「張群」の解説の一部です。
「蔣介石側近として」を含む「張群」の記事については、「張群」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「蔣介石側近として」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「蔣介石側近として」の関連用語

1
8% |||||


蔣介石側近としてのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



蔣介石側近としてのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの張群 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS