蔣介石側近として
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その後は、黄郛を頼って北京に移り、北京政府で総統府総務処長、交通部司長などを歴任した。1924年(民国13年)10月の北京政変(首都革命)後、張群は国民軍第2軍軍長胡景翼に随従して四川省に向かい、河南省警務処長兼警備司令に任じられた。しかし、胡がまもなく病没し、1926年(民国15年)には呉佩孚により国民軍第2軍が敗北したため、張群は上海へ逃れている。 まもなく、広州国民政府が蔣介石を国民革命軍総司令として北伐を開始したため、張群もこれに参加し、国民革命軍総司令部総参議に任じられた。このとき、張群は黄郛とともに上海へ赴き、浙江財閥や幇会との連絡をとりあって、蔣の権力基盤強化を支援している。1927年(民国16年)8月、蔣が一時下野に追い込まれると、張群もこれに従って下野したが、まもなく、蔣に随従して日本へ赴く。このとき、内閣総理大臣田中義一や陸軍大臣白川義則らとの秘密会談を行った。日本留学組のうち、かれが日本語が最もうまく、何応欽、蔣介石の順だったといわれる(本田義彦『台湾総統列伝』[要ページ番号])。 帰国後の1928年(民国17年)、蔣介石が中国国民党中央政治委員会(「中政会」)主席兼軍事委員会主席として復権すると、張群も中政会委員兼外交委員会委員に任じられた。同年5月、済南事件勃発の際には、来日して田中首相と会談している。6月の張作霖爆殺事件後には、呉鉄城とともに東三省の張学良を訪問し、これを説得して易幟に導いた。また、この易幟の前後にも再び来日して、日本政府との交渉を行っている。 これらの功績もあって、張群は蔣介石から信任を受けることとなった。同年11月に国民革命軍総参謀長に任じられる。さらに翌年3月には、国民党中央執行委員に選出され、上海特別市市長にもなった。国民党中央において新政学系という新たな派閥を形成し、その指導者と目されるようになる。1930年代前半の中国共産党掃討作戦では、豫鄂皖三省剿匪総司令部党政委員兼指導委員会常務委員に任じられ、作戦計画の立案などを担当した。 その後、東北に異動し、北平政務委員会常務委員などをつとめて、対日政策の実施にあたっている。1933年(民国22年)7月には、湖北省政府主席に任命された。このときに、共産党掃討に成功したほか、財政整理や災害からの民衆救済を推進し、実績をあげた。
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