蒲生秀行の時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:05 UTC 版)
半年間の浅野長政の支配を経て、慶長3年(1598年)3月、蒲生氏郷の子の蒲生秀行が18万石で入部した。蒲生家は氏郷時代に91万9300石の禄を得ていたが、氏郷が40歳で急死し跡を継いだ秀行が13歳と幼少だったため、東北の鎮守として90万石もの所領を支配するのは容易ではなく、重臣間の諍いがあって18万石に減封された。ただし秀行の母、すなわち織田信長の娘の相応院が美しかったため、氏郷没後に秀吉が側室にしようとしたが姫が尼になって貞節を守ったことを不愉快に思ったとする説、秀行が家康の三女の振姫を娶っていた親家康派のため石田三成が重臣間の諍いを口実に減封を実行したとする説もある。秀行は武家屋敷を作り、町人の住まいと明確に区分し、城下への入口を設けて番所を置くなどして城下の整備を行い、蒲生家の故地である近江日野からやって来た商人を御用商人として城の北側を走る釜川べりに住まわせ、日野町と名づけて商業の発展を期した。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで上杉景勝を討つため、徳川秀忠は宇都宮に入った。その後、秀忠も家康も西に軍を向けて出陣したため、秀行は上杉景勝の備えと城下の治安維持を命じられた。この際に城下の町年寄が家康に人質を差し出して異心のないことを示したため、戦後に家康は宇都宮の町の地子(地代)を免除した。 慶長6年(1601年)8月24日、秀行は関ヶ原の功績により会津に60万石を与えられて復帰した。その後、新たな領主が決まるまでは徳川家の重臣の大河内秀綱(松平信綱の祖父)が4か月間にわたって管理した。
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