落城する摂津諸城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/08 23:50 UTC 版)
波多野元清より知らせをうけた細川晴元は三好長家、三好政長に出陣を命じ、阿波より堺に上陸、同年12月13日に中嶋の堀城を占領し越年した。一方、12月29日には細川高国から救援の要請を受けていた若狭の守護・武田元光が兵を率いて入京している(『二水記』)。だが、義晴・高国が同様に支援を要請していた六角定頼・赤松政村・斯波義統ら諸大名は遂に上洛することはなかった。 波多野軍も行動を開始、丹波を出国し翌大永7年(1527年)1月28日に野田城を7日間で陥落させた。波多野軍はそのまま京都に向かうと見せかけて南下し、2月4日に山崎城を陥れた。山崎城に詰めていた摂津守護代薬師寺国長は高槻城に逃亡した。 その後、 芥川城 太田城 茨木城 安威城 福井城 三宅城 芥川城 太田城 茨木城 安威城 福井城 三宅城 の諸城を次々と攻め落としたり、降伏させたりした。 2月11日、波多野軍と三好軍は山崎城で合流、翌2月12日桂川を挟んで細川高国軍と対峙した。一方で、上洛要請に応じて来なかった六角定頼はようやく被官の三雲氏・馬淵氏2000ないし3000を派遣したが定頼本人は上洛せず、六角軍被官は本国・近江から桂川から離れた北白川の地に留まっている。 なお、『南行雑録』にみられるこの戦いの直前のものと思われる2月2日付和泉上守護代松浦守書状によれば、六角定頼がこの時点で細川晴元との縁談を進めているという話が上がっており、六角氏の消極的姿勢もそれによるものだと思われる。また、同書状では波多野軍の後背を突くため高国方は但馬守護山名誠豊を丹波に乱入させようとしたが、守護代垣屋氏が波多野方に同心し、また因幡守護山名誠通が但馬に乱入したため没落したことと、高国の娘婿である伊勢国司北畠晴具は高国に合力しようとするも、長野氏など国衆が応じずに動けなかったことが書かれており、晴元方が事前に調略を行ってたことが伺える。 なお、波多野元清はこの時期病を患っていたようで、後の上洛も賢治と子の波多野秀忠のみが上洛しており、この合戦にも不参加だった可能性がある。そのためか、この戦いに関しての史料で丹波勢の主体とされるのは柳本賢治だった。
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