落城時期に関して
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/30 18:12 UTC 版)
「天神山城 (備前国)」の記事における「落城時期に関して」の解説
近年まで天神山城落城の時期については備前軍紀などの記述から「天正5年(1577年)落城説」が受容されており、事実天神山城の案内板もこれを採用した形となっていた。しかしながら近年になって備前の地方史研究家によって従来の備前軍記などの二次資料の記述と現存している一次資料との矛盾点が多く指摘され始め、平成3年(1991年)に寺尾克成が『浦上宗景考』にて従来より天神山城の陥落を早く見る「天正3年(1575年)落城説」を提起した。 続いて平成4年(1992年)には岸田裕之が『小瀬木平松家のこと付「新出沼元家文書」の紹介と中世河川水運の視座』、平成9年(1997年)にしらが康義が『天神山落城についての一史料』でそれぞれ寺尾とは別の史料を用いて天神山城の陥落を天正3年(1575年)と断定した。以後、渡邊大門・畑和良・森俊弘らもこの説を下敷きにした論文や本などを発表し、平成16年(2004年)刊行の『久世町史資料編』では「天正3年(1575年)落城説」が採用されるなど近年はこちらが史実として定着しつつある。
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