菊池俊彦説とは? わかりやすく解説

菊池俊彦説(1978年ほか)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:36 UTC 版)

流鬼国」の記事における「菊池俊彦説(1978年ほか)」の解説

北海道大学教授菊池俊彦は、1970年代以降ソ連領の考古学研究成果公開されていく中で改め流鬼国に関する研究整理し最新考古学研究成果を基に流鬼国樺太オホーツク文化人説を唱えた菊池俊彦オホーツク文化圏の樺太では大陸製の青銅鉄製品が豊富に発見され、また中国銭も発見されるなど大陸との交易があったことが確実なに対してカムチャッカ半島ではそのような遺物出土せず大陸との交易痕跡希薄なことを指摘するまた、流鬼国に関する記述中に豚飼育があったことを示唆する箇所があるが、オホーツク文化遺跡では豚の骨が発見され、その飼育痕跡確認されるのに対しカムチャッカ半島では豚飼育の記録・遺物見られないとも述べる。以上の点から、菊池俊彦流鬼国カムチャッカ半島説は成り立たず流鬼国樺太にあったとする。また、「北は夜叉国に至り、ほかの三面はみな大海にあたる(北至夜叉国、餘三面皆抵大海)」という記述については、「北に夜叉国に至る」というのは「北は夜叉国につながる交易ルート(船による海路)がある」という意味に解釈すべき、と述べている。このような菊池流鬼樺太説は現在定説として受け容れられている。 菊池説の定着以後は、流鬼国オホーツク文化人蝦夷アイヌ)・和人との交流注目する研究者による言及見られるうになる蓑島栄紀は流鬼国史料上において「君長」と「王子」という階層的社会として描かれていることに注目し枝幸町目梨泊遺跡などオホーツク文化遺跡発掘される刀剣威信財としての性格有していることを紹介してオホーツク文化原初的首長制秩序有する社会であったことを論じたまた、蓑島栄紀は流鬼国唐朝献上したとされる「貂皮(クロテンの皮)」と藤原道長大慈寺与えた奥州貂裘」とは、ともに樺太住まうオホーツク文化人産出し近隣諸国輸出したものと考えられる、とも指摘している。

※この「菊池俊彦説(1978年ほか)」の解説は、「流鬼国」の解説の一部です。
「菊池俊彦説(1978年ほか)」を含む「流鬼国」の記事については、「流鬼国」の概要を参照ください。

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