菊池俊彦説(1978年ほか)
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「流鬼国」の記事における「菊池俊彦説(1978年ほか)」の解説
北海道大学教授の菊池俊彦は、1970年代以降にソ連領の考古学研究の成果が公開されていく中で改めて流鬼国に関する研究を整理し、最新の考古学研究の成果を基に流鬼国=樺太のオホーツク文化人説を唱えた。菊池俊彦はオホーツク文化圏の樺太では大陸製の青銅・鉄製品が豊富に発見され、また中国銭も発見されるなど大陸との交易があったことが確実なのに対して、カムチャッカ半島ではそのような遺物が出土せず大陸との交易の痕跡が希薄なことを指摘する。また、流鬼国に関する記述の中に豚飼育があったことを示唆する箇所があるが、オホーツク文化の遺跡では豚の骨が発見され、その飼育痕跡が確認されるのに対し、カムチャッカ半島では豚飼育の記録・遺物は見られないとも述べる。以上の点から、菊池俊彦は流鬼国=カムチャッカ半島説は成り立たず、流鬼国は樺太にあったとする。また、「北は夜叉国に至り、ほかの三面はみな大海にあたる(北至夜叉国、餘三面皆抵大海)」という記述については、「北に夜叉国に至る」というのは「北は夜叉国につながる交易ルート(船による海路)がある」という意味に解釈すべき、と述べている。このような菊池の流鬼=樺太説は現在定説として受け容れられている。 菊池説の定着以後は、流鬼国=オホーツク文化人と蝦夷(アイヌ)・和人との交流に注目する研究者による言及が見られるようになる。蓑島栄紀は流鬼国が史料上において「君長」と「王子」という階層的社会として描かれていることに注目し、枝幸町目梨泊遺跡などのオホーツク文化遺跡で発掘される刀剣が威信財としての性格を有していることを紹介して、オホーツク文化が原初的な首長制的秩序を有する社会であったことを論じた。また、蓑島栄紀は流鬼国が唐朝に献上したとされる「貂皮(クロテンの皮)」と藤原道長が大慈寺に与えた「奥州貂裘」とは、ともに樺太に住まうオホーツク文化人が産出し近隣諸国に輸出したものと考えられる、とも指摘している。
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