自治学会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 14:43 UTC 版)
大正3年(1914年)、麻生飯倉片町の南葵文庫で、飯塚西湖、小沢打魚(黒竜会の文筆担当者)、樽井藤吉(東洋社会党)、大井憲太郎(自由党左派)、大江卓(自由党)、内田良平、山口弾正らとともに会合を持つ。その後、会合は満川亀太郎の老荘会、次いで大川周明・北一輝を交えて猶存会とも交流していく。1915年には橘孝三郎が兄弟村農場(文化村農場)を開き、1918年から武者小路実篤が新しき村などの共同体運動が展開された。1917年のロシア革命を契機に権藤は活動を再開する。大正7年(1918年)、満川亀太郎が老荘会を結成し、交遊する。 大正9年(1920年)3月、53歳になっていた権藤成卿は処女作『皇民自治本義』(冨山房)を発表した。同書では「社稷を宗とする、我家学の一斑」を提示するとされた。同年、自治学会を設立した。 1922年には、蘇我氏打倒計画をたて、大化の改新に影響を与えた南淵請安を理想として『南淵書』を発表。この著作は学者からは黙殺されたが、北一輝の『日本改造法案』とともに昭和維新に多大な影響を与えた。 1923年(大正12年)の関東大震災で大杉栄が殺害された事件について内田良平と衝突した。その後、柴田徳次郎が創設した国士舘で国史を講義した。 1926年、その発見によるという『南淵書』の内容を中心にして前編を加え、『皇民自治本義』を改題して『自治民範』を発表。 1927年(昭和2年)、安岡正篤が設立した金鶏学院で制度学の講義を受け持つ。1928年には山県大弐著『柳子新論』の訓訳を発表。
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