自民党政権の安定
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:40 UTC 版)
「池田勇人内閣の政策」の記事における「自民党政権の安定」の解説
池田は安保騒動の余燼を完全に払って国民の自民党離れを阻止し、その後の党勢の礎を築いた。国民の所得は着実に伸びて、池田内閣発足から8年後の1968年には日本のGDP(国内総生産)がアメリカに次いで資本主義国第2位に躍り出た。経済成長による生活水準の向上もあって、池田内閣時代の4年間は、与野党対決といった局面はあまりなく、政局がきわめて安定した時代となった。池田内閣は、朝日新聞の世論調査によれば、55年体制下で一度も支持率が不支持率を下回らなかった唯一の内閣といわれる。1963年に高度成長を背景とする自民党政権の行く手に希望を見出し、池田を委員長とする「自由民主党本部建設委員会」が発足され、自前の自由民主党本部建設が決定、1964年に着工、1966年に完成した。 また、1960年の衆議院解散総選挙はテレビによる空中戦や宣伝合戦という以上に組織票が激しくなった選挙としてジャーナリズムからは報じられ、後世にも記憶されることになった。テレビを通じた空中戦は勿論、自民党の派閥と個人後援会による地上戦のどちらも、その後の日本政治に大きな影響を与えた。地上戦は自民党の派閥政治を定着させ、個人後援会がやがて大きな利権の集団となり、その維持のため、公共事業が必要になるという図式を生んだ。総理大臣の「政治より経済、花より団子」というメッセージは、テレビを使って国民全体に瀰漫され定着していった。当時の人々の心の中には、戦前以来の「消費は背徳である」というモラルが薄まりながらも存在したが、池田のメディア戦略によって結果的に「消費は美徳である」というムードに変えた。 「安保」から「GNP」へ、新聞紙面に踊る大見出しの活字を変わっていき、「国民所得」や「成長率」「経常収支」「貿易外収支」といった経済用語も国民に広く知られるようになった。池田の唱えた経済主義は、個々の生活の豊かさに向けて邁進しようとする戦後日本の心証を公認し、それによって人々は高度成長を消費者ならびに生産者(そして廃棄者)として生きる大衆になった。
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