聞役の設置とは? わかりやすく解説

聞役の設置

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/19 19:15 UTC 版)

長崎聞役」の記事における「聞役の設置」の解説

聞役制度出来たのは、正保4年1647年)にポルトガル船が長崎来航した際に諸藩から出兵した時から元禄元年1688年)までの間である。ポルトガル人追放後鎖国政策確立してゆくのに伴い異国来航などの緊急時情報収集や、平時での長崎奉行国元の間の連絡等のために、西国各藩から派遣されるようになった寛永のころまでは、どの藩も蔵屋敷はあったが、それは町屋借りたもので、身分の低い軽輩の者を置くか、長崎町人管理させ、奉行所からの飛脚取り次ぎをする程度で、藩の家臣常駐させることは無かった。しかし、ポルトガル船の来航の際は、諸藩長崎軍勢出陣させるに至った。この事件長崎重要性感じた各藩が、附人を派遣するようになったという。この「附人」が後の聞役である。「聞役」という名称が使われるうになるのは、宝暦から明和にかけての時期1751年から1771年)と推測されている。 1年中長崎詰めている聞役定詰じょうづめ)または定居(じょうきょ)と称しオランダ船が長崎入港し滞在する5月中旬から9月下旬の5ヶ月間だけ長崎詰め聞役を夏詰(なつづめ)と呼んだ前者佐賀藩福岡藩秋月藩筑前藩)・対馬藩熊本藩肥後藩)・小倉藩平戸藩の6藩で、後者鹿児島藩薩摩藩)・萩藩長州藩)・久留米藩柳川藩島原藩唐津藩大村藩五島藩福江藩)の8藩である。 平戸藩職制では聞役使番であり、これは近習など藩主御側勤め経験がある中級家臣任じられる役職で、郡代町奉行よりも上であったし、薩摩藩では江戸京都・大坂の留守居役などと並ぶ重要な役職であった一方で柳河藩分限帳では代官徒士頭より下位位置づけである。また、聞役基本的に単身赴任であって妻子国元置いてきた。

※この「聞役の設置」の解説は、「長崎聞役」の解説の一部です。
「聞役の設置」を含む「長崎聞役」の記事については、「長崎聞役」の概要を参照ください。

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