織水同盟と滅亡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 14:39 UTC 版)
忠政死後は水野信元(忠政次男)が継いだが、彼はそれまでの親今川路線を変更し、織田信秀と同盟(織水同盟)を結んだ。このため松平宗家の松平広忠(徳川家康の父)に嫁いでいた信元の妹於大の方は離縁となり刈谷に帰り、久松家に嫁ぐまでの数年を刈谷城近くの椎の木屋敷で過ごした。ただし、松平氏と水野氏の同盟そのものが広忠の後見であった叔父の松平信孝が主導したもので、信孝が広忠や重臣たちによって排斥された以上、水野氏との同盟は継続できなかったとする説もある。また、水野信元も今川氏と織田氏との境目の武士として今川氏の西三河進出に伴って今川方につくこともあり、確実に織田方として定着するのは、織田信長が織田氏の家督を継いで知多郡の支配の立て直しを意図した天文21年(1551年)のこととする指摘がある。また、庶流の常滑水野氏はその後も今川方と通じていた形跡がある。 水野信元の弟水野信近(忠政3男)は永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いにおいて城代として刈谷城を守ったが戦いの直後に今川家臣・岡部元信に城を攻められ戦死した。 水野信元は永禄5年(1562年)には徳川家康を支援し信長と家康の同盟(清洲同盟)を仲介し、その後も水野惣領家として三方ヶ原の戦いや、長島一向一揆との戦いに参陣した。 しかし天正3年(1575年)水野信元は突如、信長に武田勝頼への内通を疑われ(佐久間信盛の讒言によるとされる)、徳川氏を頼り逃亡をはかるが、織田信長の命を受けた徳川家康により殺害された(これには織田・徳川両氏の陰謀による水野氏排斥であったとする見方もある)。この時、跡継ぎであった水野信政(信近の子)も殺害され、ここに水野氏は断絶となる。
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