総構とは? わかりやすく解説

総構え

(総構 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/02 22:47 UTC 版)

総構え(そうがまえ)は、外郭(がいかく)、またはその囲まれた内部のこと。特に、城のほか城下町一帯も含めて外周を石垣土塁で囲い込んだ、日本の城郭構造をいう。惣構(そうがまえ)、総曲輪(そうぐるわ)、総郭(そうぐるわ)ともいう。


注釈

  1. ^ 小田原城の惣構について、西股総生は、 全体として集落の囲い込みよりも防御上の合理性に基づいて設定されたと評価している。板橋の宿(中世東海道の宿)が惣構のラインからは除外される一方、城の東方は惣構を山王川のラインまでに設定しているが、山王川と城中心部との間にひろがる平野部に集落が密集しているとは考えにいことによる[1]
  2. ^ 「御土居」は、土塁とともに堀が構築されていた。土塁と堀の幅は各々約20mであった[2]
  3. ^ 山科本願寺は外郭線を三重にめぐらし、本願寺を核に求心的な構造をなしていた[5]
  4. ^ 小岩嶽城(現・長野県安曇野市にある山城)には山麓部を囲繞する空堀(幅約15m・深さ約7m)がある[14]

出典

  1. ^ 西股2003、27-29頁
  2. ^ 中村2003、316頁
  3. ^ 1979年12月指定。『図説 中世城郭事典 三』p.36
  4. ^ 『夢路を追って~官兵衛と村重~摂津⇔姫路』神戸新聞 2014.05.02 朝刊 20頁 西播
  5. ^ 福島2003、327頁
  6. ^ 小笠原2016、268頁。"1991 平成3 会津若松城総構に蒲生氏郷時代の大型障子堀 天正18年小田原合戦後"
  7. ^ 石田2009、78頁。"伊達政宗は、桧原に桧原城築き、城下町を取り囲むように、直線的な外構を構築した。土塁と堀、外桝形の虎口が築かれている。"
  8. ^ 柴田2003、321頁。"本佐倉城(千葉県印旛郡酒々井町)(中略)惣構ライン上に砦群を配置"
  9. ^ 柴田2003、321頁。"臼井城(千葉県佐倉市)(中略)惣構ライン上に砦群を配置"
  10. ^ 西股2003、28頁。"岩槻城の惣構は、現在では市街地の中にごく一部を残すのみだが、戦前までは「岩槻の金屏風」と俗称される雄大な土塁が良好に遺存していた。"
  11. ^ 西股2003、19-20頁。"埼玉県所沢市の滝ノ城も、長大な外郭線を有している。(中略)想定される敵主攻正面は北東方であり、そうした軍事的状況に対応するように外郭線が設定されている。この外郭線には数カ所に横矢の折れがあり、東面には横矢に援護された馬出も備えたらしい。(中略)技巧を駆使しているのは、広大な台地続きに対して防御線が長くならざるをえないことへの対処、と理解できる。"
  12. ^ 岡田2008、35頁。"御茶ノ水の巨大な総構"
  13. ^ 小笠原2016、267頁。"1986 昭和61 小田原城北縁総構竜土院裏の発掘で障子堀確認 惣構障子堀の初見"
  14. ^ 三島2000、69-71頁
  15. ^ 髙田2003、66頁。"①外郭の堀・土塁は長良川沿岸部を除いてほぼ直線的なラインである。②外郭南側の端部は「権現山」裾部で終わっている。"
  16. ^ 福島2000、321頁。"松ノ木城の「外構」「惣構」"
  17. ^ <天正一二年>三月一三日付、羽柴秀吉書状『加越能古文叢』四一。"金沢之惣構"
  18. ^ 中井2008、29頁。"豊臣秀吉の大坂城の構造(中略)本丸の外周に二の丸、三の丸が配され、さらにその外周は広大な総構となっていた。"
  19. ^ 宮田2008、50-53頁。"西国将軍となった池田輝政の築いた姫路城は、長期の籠城も可能として町屋や寺町全域を外堀で囲い込んだ総構の城である。"
  20. ^ 徳永2016、259頁。"松江城下町遺跡の障子堀は、外堀のさらに外側に位置する"
  21. ^ 木島2004、152頁。"萩城(中略)惣構:三ノ丸⑤を巨大な土塁・で固めた惣構とし、大身家臣団屋敷を包摂。外辺部曲輪⑥に町屋地区・中下級家臣団屋敷を包摂し、三ノ丸⑤と共に整備った(ママ)街区で集約化"
  22. ^ 髙田2019、128頁。"丸亀城跡東方の外堀跡"   髙田2019、138頁。"丸亀城南部の外堀跡と土塁"
  23. ^ 小笠原2016、268頁。"2004 平成16 小倉城(北九州市)外堀(総構)で障子堀検出 天正18年小田原合戦後"
  24. ^ 木島2004、147頁。"福岡城(中略)惣構:堀・土塁で構築した外郭を持つ。中には整然とした街区で集約化した士分屋敷・町屋地区を包摂"
  25. ^ 木島2004、148頁。"柳川城(中略)惣構:堀・土塁で構築された巨大な惣構を持つ。その中には整然とした街区で集約化した士分屋敷・町屋地区を包摂"
  26. ^ 木島2004、151-152頁。"府内城(中略)惣構:堀・土塁で構築した巨大な構の中に、整然とした街区で集約化した士分屋敷・町屋地区を包摂"
  27. ^ 中村2017、148頁。"豊前中津城(惣構え)(中略)『豊前中津之城圖』に描かれている要素から少なくとも図中の「惣構え」は寛永3年以前と推測できる。さらに古くならないものであろうか。"
  28. ^ a b 北郷1995、217頁。"「遠構」として外郭ラインを掘りきる遺構が存在し、山田町山田城では主郭を中心とした曲輪を大きく取り囲む形で一、三㎞に及ぶ堀が設定され、また都城市安永城郭跡では主郭から一㎞以上遠く離れた台地のくびれ部に堀を設ける例も見られる。"


「総構え」の続きの解説一覧

総構

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小田原城」の記事における「総構」の解説

小田原城中核部が二の丸総堀三の丸総堀、総構堀によって三重囲われ構造となっている。二の丸総堀平地部及び八幡山古郭外周の堀が繋がったのである三の丸総堀近世城郭部の三の丸堀に加え南側天神山丘陵尾根を走る空堀、そして最西端小峰大堀切によって構成される小峰大堀切は中世城郭最大遺構である。東側へと伸びる八幡山丘陵天神山丘陵谷津丘陵が集まる点にあり、各丘陵西側山地部切断している。総構堀は上述のように小田原の町全体をとりかこんだ連続した空堀水堀である。山地部空堀小峰大堀切よりさらに西の小田原城高所となるお鐘の台をとりこんでおり、ここから北西部桜馬場稲荷の総構堀は比較的よく残る。平地部水堀消滅、あるいは暗渠化したが、南西部早川口や東部蓮上院近辺辛うじて土塁が残る。

※この「総構」の解説は、「小田原城」の解説の一部です。
「総構」を含む「小田原城」の記事については、「小田原城」の概要を参照ください。

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