紫電11型の参戦
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紫電は、第一航空艦隊で新編成される10個航空軍のうち4個(341空、343空、345空、361空)が紫電装備を予定するほどの期待を集めたが、1944年(昭和19年)1月に紫電を優先配備することが決まっていた第341海軍航空隊でさえ、零戦との交替は遅々として進まず、7月の時点でも編隊飛行訓練を九三式中間練習機で行っていた。紫電の生産は遅れ、343空は零戦で戦い、345空、361空は紫電の供給もなく解隊された。 1944年(昭和19年)8月から9月にかけて341空が台湾・高雄に進出し、10月にはウィリアム・ハルゼー提督率いる第38任務部隊を迎撃した。10月12日、紫電31機と米軍機60機が交戦し、米軍機撃墜10、紫電14機喪失という初陣であった。10月15日まで台湾沖航空戦を戦った。11月、341空と201空はフィリピンに進出してレイテ沖海戦に参加する。紫電は米軍新鋭機との空中戦、強行偵察、米魚雷艇攻撃など多様な任務に投入され、機材と搭乗者双方の疲弊により消耗していった。1945年(昭和20年)1月7日、341空から特攻機・直掩機ともに紫電で編成された特攻隊が出撃した。こうして341空は全装備紫電を失い、フィリピンから台湾へ撤退した。 宮崎勇は、零戦に比べて機銃の命中率が高く、高空性能・降下速度は優れていたが、鈍重で空戦性能は零戦より遥かに劣る「乗りにくい」戦闘機であったと評する。341空飛行隊長だった岩本邦雄や201空搭乗員だった笠井智一は、紫電はF6Fには手も足も出なかったという。初めて紫電を見た笠井は、紫電がF4Fと酷似していたと証言。陸軍の誤射で撃墜された機体や、逆に米軍機を誤認させて接近し撃墜した例もあるという。
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