第79機甲師団とは? わかりやすく解説

第79機甲師団

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/06 02:34 UTC 版)

パーシー・ホバート」の記事における「第79機甲師団」の解説

1942年8月実施されディエップ上陸作戦において、通常の戦車歩兵では水陸両用作戦の中で敵軍設置した障害物対処できないこと実証された。そして連合国軍によるヨーロッパ侵攻直後から、自然および人口障害物対処する特殊車両必要性高まっていった。 1943年3月資材不足を理由に第79機甲師団の解散決定するが、この際帝国参謀総長英語版)のサー・アラン・ブルック元帥ホバート会談し、第79機甲師団を特殊車両部隊として再編成しないかと提案した当初ホバートはこうした部隊価値懐疑的だったものの、リデル=ハートからそれらの部隊戦闘参加するだろうと保証された為、ブルック提案受け入れることとなった再編後部隊には陸軍工兵79実験機甲師団(79th (Experimental) Armoured Division Royal Engineers)という名称が与えられた。部隊章黄色三角形の上に鼻を開いた黒い雄牛描かれたもので、師団所属する全ての車両描かれていた。また、ホバート義理の兄となったバーナード・モントゴメリー元帥も、欧州における連合国軍最高司令官だったドワイト・D・アイゼンハワー将軍特殊車両調達必要性伝えている。 ホバート指揮下で第79師団様々な特殊車両有する部隊へと再編され、これらの特殊車両彼の名をとってホバーツ・ファニーズHobart's Funnies, 「ホバート愉快な連中」)と総称された。これらの車両上陸支援有用だとしてノルマンディー対す上陸作戦投入された。 1944年6月6日ノルマンディー上陸作戦オーバーロード作戦)が始まる。この際ホバーツ・ファニーズ全車両が前線送られる予定だったが、アメリカ軍反対もあり結局はM4中戦車水陸両用化したDDシャーマンのみが投入された。 第79師団単一部隊として配置されることはなく、各車両それぞれ別の部隊派遣され任務従事した終戦までに第79師団はおよそ7,000両の特殊車両有していた。終戦後1945年8月20日、第79師団解散したホバート1946年陸軍退役し1957年サリー州ファーナムにて死去したドイツデトモルトには彼の名を付けたホバート兵舎Hobart Barracks)があった。この兵舎戦後ドイツ政府によって使用されていた。

※この「第79機甲師団」の解説は、「パーシー・ホバート」の解説の一部です。
「第79機甲師団」を含む「パーシー・ホバート」の記事については、「パーシー・ホバート」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「第79機甲師団」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「第79機甲師団」の関連用語

第79機甲師団のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



第79機甲師団のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのパーシー・ホバート (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS