第79機甲師団
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「パーシー・ホバート」の記事における「第79機甲師団」の解説
1942年8月に実施されたディエップ上陸作戦において、通常の戦車や歩兵では水陸両用作戦の中で敵軍が設置した障害物に対処できないことが実証された。そして連合国軍によるヨーロッパ侵攻直後から、自然および人口障害物に対処する特殊車両の必要性が高まっていった。 1943年3月、資材不足を理由に第79機甲師団の解散が決定するが、この際に帝国参謀総長(英語版)のサー・アラン・ブルック元帥はホバートと会談し、第79機甲師団を特殊車両部隊として再編成しないかと提案した。当初ホバートはこうした部隊の価値に懐疑的だったものの、リデル=ハートからそれらの部隊も戦闘に参加するだろうと保証された為、ブルックの提案を受け入れることとなった。再編後の部隊には陸軍工兵第79(実験)機甲師団(79th (Experimental) Armoured Division Royal Engineers)という名称が与えられた。部隊章は黄色い三角形の上に鼻を開いた黒い雄牛が描かれたもので、師団に所属する全ての車両に描かれていた。また、ホバートの義理の兄となったバーナード・モントゴメリー元帥も、欧州における連合国軍最高司令官だったドワイト・D・アイゼンハワー将軍に特殊車両調達の必要性を伝えている。 ホバートの指揮下で第79師団は様々な特殊車両を有する部隊へと再編され、これらの特殊車両は彼の名をとってホバーツ・ファニーズ(Hobart's Funnies, 「ホバートの愉快な連中」)と総称された。これらの車両は上陸の支援に有用だとしてノルマンディーに対する上陸作戦に投入された。 1944年6月6日、ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)が始まる。この際、ホバーツ・ファニーズは全車両が前線に送られる予定だったが、アメリカ軍の反対もあり結局はM4中戦車を水陸両用化したDDシャーマンのみが投入された。 第79師団は単一の部隊として配置されることはなく、各車両はそれぞれ別の部隊に派遣され任務に従事した。終戦までに第79師団はおよそ7,000両の特殊車両を有していた。終戦後の1945年8月20日、第79師団は解散した。 ホバートは1946年に陸軍を退役し、1957年にサリー州ファーナムにて死去した。 ドイツのデトモルトには彼の名を付けたホバート兵舎(Hobart Barracks)があった。この兵舎は戦後もドイツ政府によって使用されていた。
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