第6次合併
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/14 14:26 UTC 版)
高松市と隣接する山田町は1953年(昭和28年)9月1日に公布された市町村合併促進法、いわゆる昭和の大合併を受けて1955年(昭和30年)4月1日に木田郡川島町・十河村・東植田村・西植田村の1町3村が合併して発足した。その後次第に生活圏を共有する高松市との交流は密になり、高松市との合併案が浮上し始めた。また、山田町には豊富な天然資源があるものの町の財政力では限界があり、その恩恵を受けたい高松市との思惑ともあいまった為、速やかに合併に持っていく必要があるとされた。人口の面においても山田町発足時には1万7183人であった人口は10年後の1965年(昭和40年)には1万4272人に減少、元々人口の少ないこの地域で10年の間に2911人も減少したことは特に学校教育に影を落とし、過疎化が問題視されていた。それを受けて町でも町建設委員会を設置し非公式で過疎化に始まる町の諸問題を研究していた。同じく高松市水道局でも町内にある四箇池の余剰水を高松市の飲料水に当てるべく、四箇池土地改良区との交渉を始めていた。 1964年(昭和39年)1月16日高松市と山田町の首脳部が会談し合併意見について交換、双方とも10名の委員を申し合わせた。10月2日には高松市役所で第一回高松市山田町合併促進研究会が開催され、会則の審議と会長・高松市長國東照太、副会長・高松市助役山口武男、山田町長赤松彰を選出、その後10月9日に高松市側から委員を14名に増員したい旨の申し入れがあり、双方の委員が14名に増員された。1965年(昭和40年)6月14日の第三回合併促進協議会では特例法に基づいた合併協議会へ切り替えるべく市、町の臨時議会を招集し合併協議会規約を議決する申し合わせをし、8月2日に県知事宛に「合併協議会の設置届」を提出、12月15日には高松市役所第六会議室で合併協議会開催にこぎつけた。協議会会長は國東高松市長、副会長は山口高松市助役、赤松山田町長が選任された。翌年1966年(昭和41年)2月8日市役所で開かれた市、町の理事会で、同年度事業予算を打ち合わせ、3月10日に市役所で合併に向けたロードマップを設定、3月中に財産目録の調製、4月中に建設計画の審議、5月に市、町議会で合併を決議し、6月県議会での承認を求めることで一致した。4月25日に高松市役所で開催された合併協議会で合併の期日を決定、建設計画、合併協定書などを承認し、1966年(昭和41年)7月1日山田町を高松市に合併した。高松市にとって昭和最後の合併であった。 当時のこの合併議案の採決を行った議会議長 高松市議会:花崎政美 山田町議会:稲井宇一 高松市との合併に伴い設定された町名 旧大字坂元→川島東町 旧大字高野→川島本町 旧大字上田井→由良町 旧大字西十川→十川西町 旧大字東十川→十川東町 旧大字小村→小村町 旧大字南亀田→亀田南町 旧大字西植田→西植田町 旧大字池田→池田町 旧大字東植田→東植田町 旧大字菅沢→菅沢町 第6次合併当時の面積と人口自治体名人口(人)世帯数(世帯)面積(km2)人口密度(人/km2)首長木田郡山田町14,272 3,070 40.86 349.3 赤松彰 高松市243,444 64,694 152.20 1,599.5 國東照太 新高松市257,716 67,764 193.06 1,334.9 國東照太
※この「第6次合併」の解説は、「高松市の歴史」の解説の一部です。
「第6次合併」を含む「高松市の歴史」の記事については、「高松市の歴史」の概要を参照ください。
- 第6次合併のページへのリンク