第6次パンジシール攻勢– 1982年8月〜9月
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「パンジシール攻勢 (アフガニスタン紛争)」の記事における「第6次パンジシール攻勢– 1982年8月〜9月」の解説
第6次攻勢では、ムジャーヒディーンのアジトを発見し破壊するために、パンジシールの基地から出発した自動車化部隊と空挺スペツナズ部隊による一連の掃討作戦が行われた。特にソ連内から飛来したTu-16爆撃機によって反政府勢力の潜伏先と疑われる村々への激しい空爆も行われた。空挺部隊は索敵殲滅作戦を実行し、マスードの機動部隊を包囲し、その一部を破壊した。しかし、ムジャーヒディーンの消耗は概して少なく、攻撃の矢面に立たされて甚大な被害を受けたのは民間人であり、彼らの多くは渓谷から逃げていった。 激戦にもかかわらず、ソ連はムジャーヒディーンの殲滅に失敗し、戦闘はすぐに膠着状態に陥った。第5次と第6次攻勢でソ連軍は最大3000人の死傷者を出し、1000人のアフガン軍兵士がムジャーヒディーンに亡命した。 攻勢の最盛期が過ぎると、ソ連軍によって占領された多くの地域は、士気が低く、脱走率が高いアフガン軍部隊に引き渡された。アフガン軍はマスードの反撃の標的となり、一連の奇襲攻撃で、いくつかの政府軍の前哨基地が陥落した。最初はサリチャのアフガン軍の前哨基地で、地雷原を横断しなければならなかったにもかかわらず、ムジャーヒディーンが80人の捕虜と8台の戦車とともに占領した。その直後にビルジャマンの政府軍拠点も陥落し、ムジャーヒディーンはこのようにしていくつかの地域を奪還することができた。これらの作戦は、ソ連の守備隊と補給隊への継続的な嫌がらせとともに、ムジャーヒディーンが敗北にはほど遠いことを証明し、マスードとの停戦交渉の必要性をソ連に確信させるものであった。 1983年1月、ソ連とムジャーヒディーンの間で初めて停戦が締結され、6か月間続き、その後延長された。マスードがGRUのアナトリー・タカチェフ大佐と直接交渉した協定では、ソ連軍がアナバの小規模の守備隊を除いてパンジシールから撤退し、ムジャーヒディーンがその進入を管理することで合意した。停戦の対象地域にはパンジシール渓谷を含むが、戦闘が続いていたサラン峠は含まれていない。 マスードは停戦を利用して、グルブッディーン・ヘクマティアルが率いるヘズブイ・イスラミ党に忠誠を誓う敵対派閥によってそれまで支配されてきた地域(アンダラブ地区など)にまで影響力を拡大した。より平和的に、彼はコースト・フェレン方面と、タハール州南部の一部地域を掌握し、バグラーン州の他のゲリラグループと接触し、彼の軍事組織を承認するよう彼らを説得した。彼はまた、5つの支谷とパンジシールの防御を強化し、多層防御を可能にするように命じ、再攻勢を想定してタハール州のシラ・マンダラに本部を撤退させた。
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