第1次成田デモ事件
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1968年2月26日、三里塚芝山連合空港反対同盟・三派全学連・砂川基地拡張反対同盟が、成田市役所下にある成田市営グランド(現・栗山近隣公園)で「三里塚空港実力粉砕・砂川基地拡張阻止現地2.26総決起集会」を共催。 「成田を第二の羽田にせよ」と公言し約1,000人が参加した全学連は、午後3時半、集会を終えてデモを始めた反対同盟を追い抜いて、市役所に併設されている新東京国際空港公団分室への突入を図り、プラカードの板を外したゲバ棒や工事用の石を武器に、公団分室を守る千葉県警機動隊と衝突した。学生らの攻勢は熾烈を極め、一時は学生らにとりつかれた指揮車にいた連隊指揮官の成田警察署長が指揮棒で応戦。警備側は716人が重軽傷を負う。うち学生にクロルピクリンを顔に投げつけられた警官1人が一時危篤となり、喉の切開手術を施され一命をとりとめる(その後この警官は職務復帰を果たすが、喉には手術痕が残った)。 学生ら24人が凶器準備集合や公務執行妨害で逮捕されたほか、戸村一作反対同盟代表をはじめ155人の負傷者を出す。一方、警察では中核派の機関紙『前進』などから集会が暴徒化する兆候をつかんでいたものの、1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争で「過剰警備」を批判され、反対派側もこれを利用して「機動隊がくるからあのような騒動になったのだ」と喧伝したことから穏便な警備方針を打ち出さざるをえず、また動員された機動隊約3000人も主に普段交番勤務をしている警察官の寄せ集めであったため前日に急遽支給された大盾の取り扱いにも不慣れで、大きな被害を出した。 この混乱に乗じて反対派農民が空港公団分室に侵入して盗み出した空港の設計図面は、後に成田空港管制塔占拠事件での作戦立案に用いられた。 頭に7針を縫う怪我を負って成田赤十字病院に入院した戸村代表は、ベッドで悔し涙を流しながら「眼の前で学生たちが警官隊になぐられているので、とめようとした。押えた左手を警棒でなぐられ、そのあと後ろからヘルメットをはずされ頭を乱打された。警官隊が私と知っていて、ひどくなぐりかかったと思う。警察の正体を見たので、これからは徹底した抵抗を続ける。そのためには死んでもいい」と怒りを顕にした。 なお、活字報道を嫌っていたことで知られる当時の内閣総理大臣佐藤栄作は、「昨日の成田空港デモは、学生に対する批判の声多い。然し朝日(新聞)は相不変学生より。何としても朝日征伐にかからねばなるまい」と翌日の日記に綴っている。
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