第二次アフガン戦争
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「シール・アリー・ハーン」の記事における「第二次アフガン戦争」の解説
1868年から1873年にかけ、ブハラ、ヒヴァ、コーカンドの三ハーン国がロシアに征服されると、シール・アリーはイギリスとの友好関係を強化しようとする。しかし、イギリスからは満足な回答を得られなかった。 1878年に露土戦争が勃発すると、カーブルで反英宣伝を行った。英領インド当局はネヴィル・ボウルズ・チェンバレン(英語版)を団長とする使節団を派遣しようとしたが、シール・アリーは入国を拒否。これにより第二次アフガン戦争(1878年 - 1881年)が勃発した。 シール・アリーはイギリス軍に敗れた。彼はカブール占領の前日に退位し、ヤアクーブ・ハーン(英語版)を摂政として残して、自らはバクトリアに逃れ、ロシアの援助を要請したが拒絶される。行動を制限されて帰国し、1879年2月21日、マザーリシャリーフで死去した。 ヤアクーブ・ハーンは、5月15日にガンダマク条約(英語版)を結び、第二次アフガン戦争は終結した。
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第二次アフガン戦争
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詳細は「第二次アフガン戦争(英語版)」を参照 復位後、1855年にイギリスとの間でペシャーワル条約を結んで領土の相互保全を約し、北と西で現在のアフガニスタンの領域へと支配を広げたドースト・ムハンマドの死後、兄弟たちを倒して後継者となった息子シール・アリー・ハーンがイギリスとの関係を軽視し、またロシアが1868年にブハラ・アミール国、1873年にヒヴァ・ハン国を保護国とし、1876年にはコーカンド・ハン国を併合して中央アジアへと直接進出する情勢はイギリスを大いに刺激した。 1878年7月、ロシアがアフガニスタンに使節を送ると、シール・アリーは拒絶しようとするがカーブルへの到着を許してしまい、これに対してイギリスのインド副王である第2代リットン伯爵ロバート・ブルワー=リットンの送った使節が国境で拒絶される事件が起こった。ロシアのアフガニスタン進出を恐れるイギリスのベンジャミン・ディズレーリ内閣は強硬姿勢をとることに決し、再びアフガニスタンに宣戦を布告した。 1878年11月、イギリス軍(英印軍)は、ペシャーワル方面(ブラウン将軍指揮下の1万6千人、火砲48門)、クラム方面(ロバーツ将軍指揮下の6千人、火砲18門)、カンダハール方面(スチュアート将軍指揮下の1万3千人、火砲32門)の3手に分かれてアフガニスタンへと侵攻した。戦闘は、イギリス軍の優勢のうちに進み、カーブルなどの要地を占領した。 やがてシール・アリーは北部のマザーリシャリーフに逃れて同地で死去し、後継者ヤアクーブ・ハーン(英語版)はイギリスに屈して1879年5月15日にガンダマク条約(英語版)を結んで、東南部の割譲とイギリスに外交権を委譲して保護国となることを認めたが、依然としてアフガニスタン側の反抗が強くイギリス軍は苦戦を強いられ、ヤアクーブ・ハーンも退位してインドへと亡命した。 1880年7月27日にカンダハール郊外のマイワンドの戦い(英語版)で、ヤアクーブの兄弟アイユーブ・ハーンに大敗を喫するなど、イギリス軍は大きな損害を受けながらも、9月1日のカンダハールの戦い(英語版)でアイユーブ・ハーンを撃破すると、1881年までアフガニスタンへの駐留を続けた。結局イギリスは、混乱の中で亡命先の中央アジアから帰還していた王族の一員アブドゥッラフマーン・ハーンが台頭してくると彼を交渉相手として妥協することにし、外交権をイギリスに委ねて保護国となることを認めさせ、イギリスの面目と当初の戦闘目的を果たす見返りに彼に庇護を与え、自立支配を許す条件で撤退することとなった。国境は結局ガンダマク条約のものが踏襲され、東南国境は現在のアフガニスタン・パキスタン国境線に確定することになるが、これによってパシュトゥーン人(アフガン人)の居住地がふたつの国家に分断された。 シール・アリー ヤアクーブ・ハーン アイユーブ・ハーン
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