第二〇四航空隊
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1943年(昭和18年)9月、ラバウルに展開する第204航空隊(204空)司令に着任しソロモン航空戦に参加。204空司令として「大切なのは死なないこと、搭乗員の補給もままならないので実戦になれてから戦果を挙げろ、功名に焦って落とす前に落とされるな」と訓示した。一方で柴田は特別攻撃隊(必死特攻とは別物)と名付けた部隊を編成し、未熟者に決死を強いる柴田考案の「緩降下衝突一秒前爆撃法」を採用した。これは練度の低い搭乗員に指導したもので、敵の射撃を回避せずに低速で降下して爆撃して命中率を上げる戦法である。訓練を必要としないが高リスクで多大な犠牲を生んだ。 12月15日、マーカス岬を攻撃した。帰還した大庭良雄(制空隊隊長)は戦果は小さいと報告、山中忠男(爆撃隊隊長)は大戦果と報告し、戦果がはっきりしなかった。柴田は現地から敵上陸用舟艇の破片らしきものを証拠として挙げ、戦果は物資満載の上陸用舟艇多数撃破、炎上と報告した。しかし実際の連合側の被害はほぼなく上陸に成功していた。 1944年(昭和19年)2月16日、トラック基地に敵機偵察があったが柴田らは気に止めず、映画鑑賞をしてその日は寝た。しかし翌2月17日朝、敵空襲によって目を覚まし柴田は急いで機体を上空へ発進させる。出撃した31機中、10機ほどが帰還し18名未帰還。敵は戦闘機隊であったため空中被害が大きく地上被害は小さかった。次の攻撃に備え6機しか用意できない状態になり、しかも搭乗員も小隊長以外初心者となった。続く敵来襲によって最後には1機になった。柴田によれば運に任せて空中退避を目的にしたという。この柴田の上空発進命令に飛行隊長・倉兼義男大尉はうろたえながら発進を指示した。指揮官として地上で零戦を失うくらいなら戦って失った方が得策でも、隊員はほぼ戦闘未経験者でベテランもマラリアにかかっており上がれば必ず落とされる状況だった。前田飛曹長は拳銃を向けて「こんな大群に2、3機上がって何になる。てめえらはそんなに下士官を殺したいのか。そんなに殺したきゃ死んでやるから見てろ」と言って戦闘機で敵機に体当たりして死亡した。 柴田によれば翌日自分も出撃する気で自身が考案した「超低空衝突一秒前奇襲爆撃法」を試すつもりでいたという。自己暗示で午前2時に起床を設定したが、爆撃で残余の6機全て失う。柴田によれば後に酒巻宗孝から負けたとはいえ204空は勇敢で感状を与えたいくらいと称賛されたという。しかしこの1日で270機の機体を喪失、補給された最新の零戦52型100機も戦わずに破壊された。主力の204空は再進出計画前に壊滅し解隊を余儀なくされた。 7月10日、解隊により呉鎮守府付になり内地帰還。8月1日、第332海軍航空隊司令兼副長。神風特攻隊の志願者を募っているが、山下政雄飛行長によって熱望者の名前を握りつぶされている。10月15日、海軍大佐。夜間戦闘機「月光」配備の第251海軍航空隊司令。
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