立憲革命とパフラヴィー朝の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 20:15 UTC 版)
「イランの歴史」の記事における「立憲革命とパフラヴィー朝の成立」の解説
詳細は「イラン立憲革命」、「パフラヴィー朝」、および「イラン進駐 (1941年)」を参照 イラン近代史はいまだに政権を握るシャーに対して闘った1905年のイラン立憲革命、立憲君主制への移行を示す1906年の(暫定)憲法発布、1908年の石油の発見にはじまる。第一議会(マジュリス)は1906年10月1日の招集である。また、地域の鍵となる石油の発見は英国によるものであった(詳細はウィリアム・ノックス・ダーシー(英語版)、アングロ・イラニアン石油会社(英語版)(AIOC)を参照)。地域の支配権をめぐるイギリスとロシアの争いは1907年の英露協商によって勢力圏分割で合意に達した。外国の支配と専制に反対し続けたギーラーンにおける立憲主義運動も1921年、パフラヴィー朝への王朝交替とともに終焉している。 第一次世界大戦中、イランはイギリス軍およびロシア軍に占領されたが、基本的には中立を維持している。1919年、イギリスはイランに保護領を設定しようとするが、1921年のソヴィエト連邦軍の撤退で断念。同年イラン・ガザーク(コサック)旅団の軍人レザー・ハーンがクーデタをおこし、ついで1925年、皇帝に即位してガージャール朝にかわりパフラヴィー朝を開いた。レザー・シャーの統治は英国の秘密裏の援助によって開始されたが、やがて英国勢力の浸透を防ぎつつイランの開発を進める政策に転じ、約16年にわたった。 レザー・シャーの統治下、政治の非宗教化と部族および地方権力を掣肘し中央集権化がおこなわれてイランの近代化がはじまる。 第二次世界大戦ではイランはソヴィエト連邦へのレンドリース法に基づく物資供給路として不可欠の位置を占めていた。1941年8月、イラクから進出したイギリス軍および英領インド軍、北から南下したソ連軍がイランを占領。9月にはイギリスによってレザー・シャーが強制的に退位させられ、その子モハンマド・レザー・シャーが後を継いだ(→イラン進駐参照)。モハンマド・レザー・シャーはこの後、1979年まで皇帝としてイランを支配する。 1943年のテヘラン会談後のテヘラン宣言ではイランの戦後の独立および国境の維持が保障された。しかし、終戦を迎てもイラン北西部に駐留するソ連軍は撤退を拒否、1945年後半にはイラン領アゼルバイジャンおよびクルディスタン北部における親ソヴィエト民族主義・分離主義者による傀儡政権のアゼルバイジャン自治共和国およびクルディスターン人民共和国の設立を援助した。 ソヴィエト軍は1946年5月、石油利権の確約を得てようやく本来のイラン領から撤退、北部のソヴィエト政権は直ちに鎮圧され、利権も取り消された。
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