立地と縄張り
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 14:15 UTC 版)
室町時代の坂戸が、交通上、経済上の要地であったことは上述の通りであるが、さらに同時代にあっては、越後国も上野国もともに関東管領山内上杉氏の分国だったため、関越間の交通もまた頻繁だったこと、また、当時の魚沼地方には上田銀山があって越後随一の銀の産出をほこってもいたことは、戦国時代に入ると、また激しい争奪の対象ともなったことを意味していた。 その軍事拠点たる坂戸城は、魚野川をはさんで、三国街道を見下ろす坂戸山に立地している。坂戸山は、山麓との比高は400mを超え、六日町盆地を流れる魚野川と三国川の合流点に向かって半島状に突出しており、北、東、西の三方は急崖をなし、西裾を流れる魚野川が天然の外堀として軍事上の防禦線となっている。 西麓の緩斜面に、城主の居館跡と家臣団の屋敷跡があり、東西110メートル、南北80メートルの城主居館跡は矩形をなし、その周囲は土塁がめぐり、特に西側正面には、高さ約2メートルの石垣がきわめて良好に遺存している。なお、家臣屋敷跡の前面、魚野川との間には「埋田」(うめた)と称される堀跡が残っている。 城主居館跡の南方、「薬師尾根」と称される尾根の中腹には「中屋敷」跡と呼ばれる東西約40メートル、南北約50メートルの区画があり、また、居館跡から東方、山上の尾根に向かう大手道を上った通称「桃の木平」には東西30メートル、南北120メートルと長狭な「上屋敷」跡がある。 戦闘時に使用する坂戸山頂上付近の「本丸」は、標高634メートルの平坦地でそれほど高所に位置するわけではないが、湧水が7合目付近でも得られることから、戦略上の価値はきわめて高かったと推定される。 「本丸」から北に延びる尾根上に「二の丸」「三の丸」などと称される主要郭跡が残っているほか、南東方向の搦手にも郭跡がみられる。南東尾根の先端、標高631メートル地点には「詰の丸」と呼称される平坦地があり、土塁が遺存している。 なお、山上尾根の要所には大規模な堀切があり、また、「本丸」東方斜面には石垣が遺存する。このほか、山頂から南西に延びる尾根の標高500メートル地点付近には「西の丸」跡がある。「西の丸」から尾根先端、寺ヶ鼻の「出丸」跡までの約2キロメートルの間に100基以上の畝状竪堀が築かれている。
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