神道内部の論争
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1882年1月24日の内務省通達に至るまで。 元々、「大教宣布の詔」により政府は「祭政一致」の政治を目指していたが、教導職を巡る「仏教側」と「神道側」の争いから、「神仏合同布教が禁止」され、それぞれの宗務行政が内務省へと移された事から始まる。以下では、「祭神論争」から「祭政分離」に至る状況を記述する。祭政分離に関しては、神道側から提示されたものとされており、特に丸山作来らが主導していたとされている。 大教院の解散を受けて神道事務局が設置されたが、1881年には伊勢派宮司である田中頼庸らと出雲派宮司千家尊福によって祭神論争が生じ、これが明治天皇への勅裁を仰ぐにまで発展した。この混乱状況を浄土真宗側は傍観しなかった、島地黙雷に続き、渥美契縁、赤松連城等々の理論家が相次いで政府に協力な進言工作に出た。その主張は、島地黙雷の「神道は宗教に非ず」の理論を継承してそれを政治勢力に確認させ、国家の儀式式典に関与する神官には、一切の宗教的言論教導、宗教行為(葬儀執行等)を禁ぜよと迫った。それは、「宗教的信条としての神道」が、国教となる道を全面的に封殺してしまうものであった。 神道側の第一提唱者が誰であったのかは判然としない。もともと宗教という語が、"Religion"の外国語の訳であって確たる概念定義がない。神道側は神道の事を、国の大教とか本教と称していても「神道は宗教の一部なり」との説は無かった。丸山作来らの非宗教論は、祭神論争などで神道が分裂していく状況を憂いて、それが当時の新しい語法で言えば「宗教的神学論争」に似ているので、その分裂を停止しなくては、神道の国家的地位を保つことができないというところから主張したものと考えられる。 この中で、内務卿山田顕義は丸山作来らの神道側から提示された神社非宗教説を採用した。 その後、千家尊福は布教を行うために、神道事務局を離脱し、出雲大社教を創始した。 慶應義塾大学の慶野義雄によれば、元々政府が神社非宗教論を提示したのではなく、仏教側が積極的に推進したものとされている。これは、当時の状況として宗教の定義を「布教・葬儀を行うこと」であるからとした。慶野の説は、次のように言い換えることが可能である。教導職とは、葬儀や儀式を執り行う職制の事で、前述の内務省達一号に記述される文言と一致するためである。 現在の宮内庁には存在していないが、デジタル大辞泉の「宮内省」の項内に律令官制の組織図があり、その中に「治部省」に喪儀司という職制がある。この職制を、明治初期において神祇官の中においたものであると推定できるためでもある。
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