田中 寅彦(たなか とらひこ)
- タイトル履歴
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棋聖 1期(第52期-1988年度前期) 登場回数合計 2回
棋聖:2回(第52期-1988年度前期~53期)獲得合計 1期 - 優勝履歴
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新人王戦 1回(第12回-1981年度) 早指し新鋭戦 1回(第1回-1982年度) 勝ち抜き戦5勝以上 1回(第5回-1982年度) NHK杯戦 1回(第34回-1984年度) 日本将棋連盟杯戦 1回(第17回-1984年度) 早指し選手権戦 1回(第20回-1986年度) 優勝合計 6回 - 将棋大賞
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第 4回(1976年度) 新人賞・連勝賞 第 6回(1978年度) 勝率第一位賞・技能賞 第 8回(1980年度) 勝率第一位賞 第 9回(1981年度) 勝率第一位賞・敢闘賞 第11回(1983年度) 勝率第一位賞・敢闘賞 第16回(1988年度) 技能賞 - その他表彰
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2000年 将棋栄誉賞(通算六百勝達成) 2001年 現役勤続25年
田中寅彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/21 01:19 UTC 版)
田中 寅彦(たなか とらひこ、1957年4月29日 - )は、将棋棋士。高柳敏夫名誉九段門下。大阪府豊中市出身。棋士番号127。棋聖のタイトルを獲得。竜王戦1組通算9期。順位戦A級通算6期。日本将棋連盟理事(2005年5月 - 2009年5月、2011年5月 - 2013年6月)。2012年12月に当時専務理事であった谷川浩司の会長就任に伴い、日本将棋連盟専務理事となり2013年まで務めた。
- ^ 「元祖」という呼び方に関して、アマチュア強豪の大木和博(大木は将棋のアマチュア棋戦で支部名人1回・赤旗名人3回獲得の戦績を有する)から訴えられたが、「二人とも元祖や創始者と呼ばれるにふさわしい」というのが裁判所の結論である(一審から最高裁まで、結論は一貫してそうであった。「居飛車穴熊戦法」訴訟参照。)結論としては、田中寅彦は「居飛車穴熊戦法の元祖」と呼ばれるのにふさわしい。(また同様に、大木も元祖と呼ばれるのにふさわしい。ちなみに世の中のさまざまなことで「元祖」と呼ばれたり名乗るのにふさわしい人が2〜3人いるという状態はさほど珍しくない)。(実際)居飛車穴熊自体は、史実では、1968年の第27期名人戦第2局で先手番の升田幸三が居飛車穴熊のコンセプト(当時の棋戦解説では「珍しい左穴熊」と記された。棋譜は週刊将棋編「不滅の名勝負100」(毎日コミュニケーションズ)で確認できる。)を後手番の大山康晴の四間飛車相手に実践していた。
- ^ とはいえ、後輩から「学ぶに値する先輩」とみなされ研究され、後輩が育ち、やがて乗り越えられてゆくことは、先輩としての功績であり名誉である。その羽生世代も既に、後輩世代の手本となり乗り越えられる側という状況になっている。
- ^ たとえば『羽生善治 神様が愛した青年』の帯にこの表現がある。
- ^ 使用駒が一字表記で、金と「成銀(「全」の「王」部分で横線が四本)」の表記が似ていることによる「成銀打ち」の反則は、島朗も1998年の銀河戦で行っている。島朗#人物を参照。
田中寅彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 08:34 UTC 版)
洞察力の鋭い居飛車党で居飛車穴熊や串カツ囲い、飛車先不突矢倉、無理矢理矢倉など、多くの序盤戦術の躍進に貢献。
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田中寅彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 17:34 UTC 版)
「聖 -天才・羽生が恐れた男-」の記事における「田中寅彦」の解説
第6巻のみ。1988年12月27日の第11回オールスター勝ち抜き戦の村山との対局が描写された。(結果は村山が勝ち)
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田中寅彦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 14:36 UTC 版)
大内の紹介で譜面作成を手伝う。居飛車穴熊のパイオニアで、流行戦法として作中でも何度か登場。
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