琿春鉄路時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 14:21 UTC 版)
当鉄道の敷設理由については資料が残されていないため詳細不明であるが、路線自体が「南満洲鉄道北鮮線の培養線」と位置づけられており、東満洲の開拓と産業を振興することで地域に利益をもたらし、ひいては北鮮線や南満洲鉄道にも利益をもたらす路線として敷設されたことが分かっている。 事実、当鉄道の中心都市である琿春周辺は、清朝初期の1644年に入植を禁ずる封禁令が布かれて以来、1881年の解禁まで200年以上も荒野のまま手つかずであったことから、入植者にとってもこの地を手中に収めた満洲国や日本にとっても極めて魅力的であり、大きな期待が寄せられていた。また朝鮮側、北鮮線を経て雄羅線に入った終端部の羅津(現在の羅先直轄市)に南満洲鉄道が一大港湾を建設するなど、北鮮線やその関連路線自体も満洲の物流にとって重要な存在となりつつあったのである。 そのような状況に後押しされる形で、1932年8月に日本資本によって琿春を本社とする「琿春鉄路」が設立され、北鮮線の慶源駅から国境を越えて琿春を結ぶ軌間762mmの軽便鉄道が計画されるに至った。 後に起点は豆満江の橋梁の関係で慶源から訓戎に変わるが、それ以降がひどく難航した。朝鮮側の訓戎での用地買収がうまくいかなかったことと、小さな鉄道ではあったものの国境を越える国際路線であったため、朝鮮側の法律と満洲側の法律の間に板ばさみとなって乗り入れが出来ない状態になってしまったのである。 このため会社側では、やむなく満洲側から路線を開通させることとし、豆満江川岸の用湾子を暫定起点として路線を建設、1935年7月10日に用湾子 - 琿春間を開業させた。やがて朝鮮側の用地問題が解決したため、同年11月1日には訓戎 - 用湾子間が開業、ようやく当初の計画路線が開通することになった。ただし北鮮線との間での旅客・貨物の連帯運輸はこの時点では行われず、翌1936年2月になってようやく開始された。
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