王位要求と最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 12:53 UTC 版)
331年、側近の宋該らが協議して「将軍(慕容廆)は中華の一角で功績を挙げられましたが、その任に対して官位は低いと考えます。周辺の者と同等の官位では、乱を鎮めることはできません。上表して官爵を進めるよう要請すべきです(既に現在は公の位にあるので、王の位を求めるべきと言っている)」と勧めると、これに参軍韓恒は「功業を建てる人物というのは、信義が褒めらずとも、名位が低くとも気にかけないものです。桓公や文公は衰退した周王室を復興した後に、覇者の称号を得たのです。まず軍備を整えて逆賊を掃討し、功績を築き上げれば、九錫といえども自ずと下賜されましょう。にもかかわらず、主君(東晋)を脅して寵を求めるという行いがどうして栄誉といえましょう!」と反対した。慕容廆はこれに気分を害し、韓恒を新昌県令へ左遷した。 こうして慕容廆は宋該らの建議に応じ、まずは東晋において強大な実権を持っている太尉陶侃へ使者を派遣し、共に北伐の兵を挙げて中原を鎮めることを提案する文書を渡そうとした。だが使者は暴風により海で没してしまったので、改めて東夷校尉封抽・行遼東相韓矯ら30人余りに上奏文を与えて、陶侃のいる太尉府へ派遣した。この文書もまた前回と内容の方向性は同じであったが、今度は直接的には慕容廆を燕王に封じ、大将軍に任じるよう要求するものであった。陶侃はこれに返書を送り、この要請を朝廷の議題に上げる事を約束したが、朝廷においてこれが議決される事は無かった。 332年3月、後趙より使者が到来し、修好を深める事を請うてきたが、慕容廆は拒絶した。 333年5月、慕容廆は病により文徳殿で没し、青山に埋葬された。享年65。49年の治世であった。成帝は使者を派遣して、慕容廆に大将軍・開府儀同三司を追贈し、襄公と諡した。 やがて子の慕容皝が燕王に即位すると武宣王と追諡され、さらに孫の慕容儁が帝位に即くと武宣皇帝と追諡され、廟号を高祖とされた。
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