獄門党
獄門党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 01:31 UTC 版)
屍隊の兄弟杯を交わした野党。ガンリュウの空牙の前にあっさり全滅させられてしまい(やられる描写すらない)、屍隊を驚愕させられた。
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獄門党
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 15:48 UTC 版)
1988年にダンプが一時引退した後は自身をリーダーとした "獄門党" を結成。グリズリー岩本、アジャ・コング、バイソン木村らの実力派を従えて引き続きヒールの頂点として活動。以降は髪を青く染めて、ロックバンドBUCK-TICKからヒントを得た逆立てヘアがトレードマークになった。クラッシュギャルズ引退後の1990年1月4日に、後楽園ホールにて行われたWWWA世界シングル王座決定トーナメントで西脇充子を破って優勝し、第37代王者に輝く。以後約3年間に渡りチャンピオンとして全日本女子プロレスの屋台骨を支え、その強さから "女帝" と呼ばれるようになった。 極悪同盟を引き継ぐ形で獄門党を組織して暫く後、マスコミからダンプについて聞かれた際に「あんな奴と一緒にするな。あいつはただ竹刀を振り回していただけだろ。あたしにはプロレスの心があるんだよ!」と言い放った。その言葉に違わず、凶器に過剰に依存しない、技の凄みや説得力で勝負するヒール像を作り上げた。レスラーとして一線を引いた後も、レスラーとしてのダンプ松本に関し「悪い見本」「あのまま(ダンプが引退せずに)いたら、私は絶対に勝てた」と振り返っている。その他の場でも、師匠であるダンプに世話になった事に感謝の弁を述べる事はあってもレスラーとして技を評価する発言は(例え本人の前でも)一切していないが、「極悪同盟に加入してからは、ダンプさんが引退するまで毎回すべての飲食代を支払ってもらい自分のお金を出した事は一切なくて、デビュー2年目以降は食べることには全く苦労しなくなったのでとても感謝している」「ダンプさんは練習嫌いで練習している所を見たことがない(笑)」「ダンプさんに教わったことで一番役に立ったのは(引退後お店を開くようにもなった)酒を覚えさせてくれたこと」や「ダンプさんの試合は基本的に技などで戦うものではなくて、ヒールレスラーの王道である凶器攻撃でお客さんに魅せるものだったけどそこがまた上手くて凄かった」などと語っている。ダンプ引退時には一緒に引退してタレント転向で芸能活動をしようと誘われていたそうで、中野は全女でトップになることを目標としていたために断ったら、「ダンプさんにその日から引退まで全く口を聞いてもらえなかった(笑)」とも語っている。2022年にぶるちゃんねる内での師弟対談で「当時はプロレスの方向性や考え方の違いで自分の方がダンプさんよりも実力が上だと度々言っていたが、偉大なダンプさんを越えたかったからそのような事を話していた」と涙を流して改めてダンプに謝罪したが、ダンプも中野は極悪時代から人目につかない所で努力して練習を頑張っていた事を知っていて、獄門党では極悪とは全く違う戦い方でプロレスをやりたかった事も解っていたから謝らなくてもいいよと対談内で話をしている。
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