無鄰庵会議
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「満洲還付条約」も参照 この洋館2階の間は、しばしば要人との会見に用いられた。日露戦争開戦前の1903年(明治36年)4月21日にはここでいわゆる「無鄰菴会議」が行われた。その時の顔ぶれは、元老山縣有朋、政友会総裁伊藤博文、総理大臣桂太郎、外務大臣小村寿太郎である。 当時、ロシア帝国は強硬な南下政策をとっており、満州のみならず北朝鮮でも勢力の拡大を進めていた。桂は、ロシアの満州における権利は認めても、朝鮮における日本の権利はロシアに認めさせる、これを貫くためには対露戦争も辞さないという態度で対露交渉にあたるため、この方針への同意を伊藤と山縣から取り付けようとした。 徳富蘇峰は『公爵山縣有朋傳』で桂の意図を以下のように著述している。 桂は、一方には此の報告あり、他方には露国の北朝鮮経営の警報に接したので、此際対露政策を決定するの、最も急なるを痛感せざるを得なかった。而して桂が小村と謀り、公の黙契を得て決定したる方針は、露国の満州に於ける条約上の権利は之を認むるも、朝鮮に於いては、彼をして我が帝国に十分の権利あることを認めしむるにあった。然かも我にして、此の目的を貫徹せんと欲せば、戦争をも辞せざる覚悟無かる可からずと云ふにあった この時桂は、「満韓交換論」とも言うべき対露方針についてを伊藤と山縣から同意をとりつけた。以下はその時の「対露方針四個條」である。 露国にして、満州還付条約を履行せず、満州より撤兵せざるときは、我より進んで露国に抗議すること。 満州問題を機として、露国と其の交渉を開始し、朝鮮問題を解決すること。 朝鮮問題に対しては、露国をして我が優越権を認めしめ、一歩も露国に譲歩せざること。 満州問題に対しては、我に於て露国の優越権を認め、之を機として朝鮮問題を根本的に解決すること。 この後、この「満韓交換論」に基づく対露直接交渉の方針は、山縣、伊藤、大山巌、松方正義、井上馨、桂、下村、山本権兵衛、寺内正毅が出席した6月23日の御前会議に提出され、上記の方針に基づいて対露交渉に臨むことが確認された。国内には当時すでに「露国討つべし」の世論が高まりつつあったが、元老と政府首脳陣はまだ外交交渉によって戦争という破局を避けようと模索していた。
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