漁場開拓
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/19 09:28 UTC 版)
1857年(安政4年)には、北蝦夷地(樺太)での漁場開拓のため、越後国一ノ木戸村(現・三条市)の小林森之助を北蝦夷地東海岸のオチョポカ(落帆)に送り、マス1,000石の漁獲を上げた。このとき、中知床岬を周り北蝦夷地東海岸への航路を開拓したことで幕府から褒美を受ける。また、漁場開拓の功をもって、北蝦夷地御直捌所差配人元締を命じられるともに苗字帯刀を許される。 これを受けて一気に北蝦夷地での事業を拡大すべく東西13か所での漁場開拓を図る。姻戚の佐藤久右衛門と箱館奉行所から1万両を借り、東海岸のオチョポカ、マアヌイ、西海岸のクシュンナイ(久春内)の3か所に約50人を送り込むが、越冬中に半数が死亡した。翌1858年(安政5年)には自ら北蝦夷地に行くなど数年間漁場開拓を進めるが、不漁と病人が続出し、私財を失う。1861年(文久元年)、北蝦夷地御直捌所差配人元締を辞退、16,000両もの幕府からの借財の返済に充てるため、漁場・建物・埋め立てて得た土地などを幕府に上納し、越後に帰郷した。その後、郷里で余生を送る。 1875年(明治8年)、樺太・千島交換条約締結で樺太を放棄したことを知り、「ああ我が罪なり」と嘆いたという。 1876年(明治9年)死去、享年75。三条市福楽寺に墓がある。 栗本鋤雲の評。「昔、匏庵の弁之助を見るや其人既に六十、赭顔白髪、鬚髯銀針の如く音吐洪鐘の如く強健にして能く山路を登降する、平地を行くが如し。不幸にして事業成らずと雖も其志稱するに堪えたり」
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