源田サーカスとは? わかりやすく解説

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源田サーカス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 04:44 UTC 版)

ブルーインパルス」の記事における「源田サーカス」の解説

1916年大正5年)に開隊された旧海軍横須賀海軍航空隊は、当初任務教育飛行練成主だった が、航空隊各地に開隊される頃からは、戦技研究航空機実用試験主な任務として行うようになっていた。海軍では、一般からの献金によって製造され戦闘機爆撃機を「報国号」と称しており、1932年昭和7年)ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行を行うようになった。これが日本におけるアクロバット飛行始まりで、当時は「編隊特殊飛行」と称していた。この編隊特殊飛行考えたのは、当時海軍戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で、小林率い編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞持てはやされた。またこれに先駆ける1925年大正14年)、旧陸軍所沢陸軍飛行学校行われた航空兵科独立記念祝典にて、数万観衆のもと空中分列式並んで各種飛行曲技供覧実施されている。 一方1931年昭和6年)に発生した柳条湖事件を機として満州現在の中国東北部)を制圧した関東軍当時日本社会高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった。ちょうど1933年昭和8年)に源田實戦闘機分隊配属され編隊特殊飛行チーム受け継いだ時期重なったため、曲技飛行機会増加し使用する戦闘機の数も9機にまで増加した。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機使用して行なわれた。課目には「3機編隊急降下し引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称定着していった。しかし、戦争激化と共に編隊特殊飛行行なわれなくなった

※この「源田サーカス」の解説は、「ブルーインパルス」の解説の一部です。
「源田サーカス」を含む「ブルーインパルス」の記事については、「ブルーインパルス」の概要を参照ください。

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