【源田サーカス】(げんださーかす)
1930年代初頭、大日本帝国海軍において、非公式に結成されたアクロバットチームの通称。
編隊長を務めた源田実(1904年生~1989年没。当時海軍大尉)からこの名がついていた。
海軍航空隊の当時の主力機であった「九〇式艦上戦闘機」3機で編隊を組み、巴宙返りや編隊宙返りなどの曲技飛行を披露した。
当時、一般国民からの寄付金による陸海軍への航空機の献納が盛んに行われていたが、同チームは海軍への航空機(「報国号」)献納式の際のデモンストレーションとして演技を披露していた。
なお、源田は大東亜戦争終戦後、(GHQによる公職追放処分を経て)航空自衛官として防衛庁へ入り、航空総隊司令官や航空幕僚長などの要職を歴任したが、航空幕僚長就任後の1959年12月、アメリカ空軍のサンダーバーズ日本公演を見たことを契機に「日本独自の曲技飛行隊」設立の構想を打ち出した。
この構想は、後に「ブルーインパルス」として結実することになった。
源田サーカス
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1916年(大正5年)に開隊された旧海軍の横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主だった が、航空隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務として行うようになっていた。海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機や爆撃機を「報国号」と称しており、1932年(昭和7年)ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行を行うようになった。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで、当時は「編隊特殊飛行」と称していた。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた。またこれに先駆ける1925年(大正14年)、旧陸軍の所沢陸軍飛行学校で行われた航空兵科独立記念祝典にて、数万の観衆のもと空中分列式と並んで各種飛行曲技の供覧が実施されている。 一方、1931年(昭和6年)に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し、「報国号」の献納数も増えることになった。ちょうど1933年(昭和8年)に源田實が戦闘機分隊に配属され、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあり、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという。こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった。しかし、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった。
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