清の有力武将
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上海救援を命じられた李鴻章は軍を揃えるため一旦合肥へ帰郷、団練を元に曽国藩の湘軍に倣って淮軍を組織した。同治元年(1862年)4月、曽国藩の推薦で江蘇巡撫となると、上海から来たイギリス船に乗り長江を渡って上海へ下り、蘇州に拠った李秀成と対峙、現地で結成された外人部隊の常勝軍と連携して5月から6月の上海防衛に功績をあげた。同治2年(1863年)から同治3年(1864年)にかけて攻勢に転じ、降伏した敵軍を吸収しつつ、西洋式軍事訓練も施して「自軍強化」に努め、蘇州・常州を奪回して江蘇省を回復した。 同治3年の湘軍による「南京包囲」には参加しなかったが、太平天国滅亡に大きく貢献した功績が認められ伯爵に叙せられた。また、李鴻章は1860年代以降の洋務運動の推進者の一人であり、戦乱の間、同治2年に江南機器製造総局を創設している。同治12年(1873年)に輪船招商局を設立。他に電報局・開平鉱務局・天津武備学堂などを創設した。 同時期に外国人との揉め事にも関わるようになり、同治2年に上海御用商人の楊坊と常勝軍司令官ヘンリー・バージェヴィンが喧嘩、バージェヴィンが楊坊を殴り太平天国へ寝返る事件が発生すると直ちに楊坊らを解任、上海の利権を手に入れた。同治3年に常勝軍の指揮を執ったチャールズ・ゴードンとも戦後処理を巡って対立、常勝軍解散の遠因を生んだり、西洋艦隊購入にも反対して白紙にすることもあったが(レイ・オズボーン艦隊事件)、それらは軍備強化を行いながら外国の介入を防ぐ綱渡り的処置だった。また、上海が貿易港だったこともあり、一連の出来事で外交手腕を磨く機会に恵まれ、以後の活動に活かされた。 太平天国鎮圧後は捻軍鎮圧が焦点になり、同治4年(1865年)のセンゲリンチン戦死後に曽国藩が捻軍迎撃に向かったが、一向に戦果を挙げられない状況を打開すべく同治5年(1866年)に李鴻章に出番を譲った。李鴻章は曽国藩の期待に応え淮軍を動員、同治6年(1867年)に湖広総督に任命され、同治7年(1868年)に完全平定を果たし捻軍鎮圧にも功績を上げた。同治9年(1870年)9月、天津教案で外国の交渉に苦慮する曽国藩の応援として淮軍を率い、交渉を円滑に進める役割を果たし、交渉完了後に曽国藩の後を継ぎ直隷総督に就任した。この時に北洋通商大臣も兼ねたので淮軍はその後、北洋軍閥と呼ばれるようになった。李鴻章のときに北洋大臣が外交を管轄するようになり、外交を統括する機関であった総理各国事務衙門の機能は次第に縮小していった。李鴻章は清朝の重臣筆頭として同治帝の母の西太后の厚い信任を得た。
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