清の有力武将とは? わかりやすく解説

清の有力武将

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/15 13:57 UTC 版)

李鴻章」の記事における「清の有力武将」の解説

上海救援命じられ李鴻章は軍を揃えるため一旦合肥帰郷団練元に曽国藩湘軍倣って淮軍組織した同治元年1862年4月曽国藩推薦江蘇巡撫となると上海から来たイギリス船に乗り長江渡って上海へ下り蘇州に拠った李秀成対峙現地結成され外人部隊常勝軍連携して5月から6月の上海防衛に功績をあげた。同治2年1863年)から同治3年1864年)にかけて攻勢転じ降伏した敵軍吸収しつつ、西洋式軍事訓練施して自軍強化」に努め蘇州常州奪回し江蘇省回復した同治3年湘軍による「南京包囲」には参加しなかったが、太平天国滅亡大きく貢献した功績認められ伯爵叙せられた。また、李鴻章1860年代以降洋務運動の推進者の一人であり、戦乱の間、同治2年江南機器製造総局創設している。同治12年1873年)に輪船招商局を設立。他に電報局開平鉱務局・天津武備学堂などを創設した同時期に外国人との揉め事にも関わるようになり、同治2年上海御用商人の楊坊と常勝軍司令官ヘンリー・バージェヴィン喧嘩バージェヴィンが楊坊を殴り太平天国寝返る事件発生する直ちに楊坊らを解任上海利権手に入れた同治3年常勝軍指揮を執ったチャールズ・ゴードンとも戦後処理を巡って対立常勝軍解散遠因生んだり、西洋艦隊購入にも反対して白紙にすることもあったが(レイ・オズボーン艦隊事件)、それらは軍備強化行いながら外国の介入を防ぐ綱渡り処置だった。また、上海貿易港だったこともあり、一連の出来事外交手腕を磨く機会恵まれ以後の活動活かされた。 太平天国鎮圧後捻軍鎮圧焦点になり、同治4年1865年)のセンゲリンチン戦死後曽国藩捻軍迎撃向かったが、一向に戦果挙げられない状況打開すべく同治5年1866年)に李鴻章出番譲った李鴻章曽国藩期待応え淮軍動員同治6年1867年)に湖広総督任命され同治7年1868年)に完全平定果たし捻軍鎮圧にも功績上げた同治9年1870年9月天津教案外国交渉苦慮する曽国藩応援として淮軍率い交渉円滑に進め役割果たし交渉完了後に曽国藩の後を継ぎ直隷総督就任した。この時に北洋通商大臣兼ねたので淮軍その後北洋軍閥呼ばれるようになった李鴻章のときに北洋大臣外交管轄するようになり、外交統括する機関であった総理各国事務衙門機能次第縮小していった。李鴻章清朝重臣筆頭として同治帝の母の西太后の厚い信任得た

※この「清の有力武将」の解説は、「李鴻章」の解説の一部です。
「清の有力武将」を含む「李鴻章」の記事については、「李鴻章」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「清の有力武将」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「清の有力武将」の関連用語

1
4% |||||

清の有力武将のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



清の有力武将のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの李鴻章 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS